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青い目の人形と横浜

青い眼をしたお人形は
アメリカ生まれのセルロイド

日本の港へついたとき
いっぱいなみだをうかべてた
わたしは言葉がわからない
迷子になったらなんとしょう

やさしい日本の嬢(じょう)ちゃんよ
なかよくあそんでやっとくれ
なかよくあそんでやっとくれ

開港150周年に沸く横浜、

山下公園から元町までは、

ポーリン橋を渡っていくことができます。

頭上にマリンタワー、夜は眼下にガス灯、

眼前には山下公園と氷川丸、

港もフランス山も臨めるこの橋は、

間違いなく、横浜散策のメインコースでしょう。

この橋のたもと、横浜人形の家の前に、

橋の名の由来、青い目の人形「ポーリン」の

銅像があります。

人形の銅像なんて、如何にも奇妙ですが、

ふくよかな頬、愛らしい顔、

この人形の愛され、また歩んだ時を思えば、

それも不思議はありません。

世界から次第に硝煙立ち上る昭和2年、

その世界への玄関口、

震災から立ち直った横浜港に接岸した天洋丸。

アメリカの子どもたちからの友好のしるし、

13,000体の青い目の人形も

この時、日本の地を踏みました。

この中の1体、ポーリンは、

横浜港にほど近い、国民学校で

愛されることになりました。

人形たちが日本全国の

小学校・幼稚園・保育園に配られた14年後、

それはちょうど、

ポーリンが国民学校に来た年に入学した子が、

成人した年に当たりますが、

日本は人形たちの祖国に、

無謀かつ卑劣な攻撃を仕掛け、戦争が始まります。

「アメリカは敵だ」と、軍の司令により

青い目の人形は処分されていきます。

あるものは焼かれ、あるものは首を刎ねられ。

その行為を、軍人や教員ではなく、

子どもたちに強いたところもあるそうです。

ポーリンを含め、僅かな人形だけが、

子ども・教員・保母らの心により

隠され、無事でいることができました。

昭和20年、米軍は日本本土への空襲を強め、

全国の都市が焦土と廃墟に塗り変わっていきます。

東京大空襲の悲惨さは、ご存じと思います。

しかしこの後、東京を中心とする日本本土には、

それまでに比べると相対的な平穏が訪れます。

それは、沖縄での地上戦が激化し、

本土への攻撃が手薄になったから。

しかし、沖縄が陥落寸前となった5月後半、

再び本土への攻撃は激しさを増します。

そして64年前の今日、529日朝、

18年前に人形たちが船から足を降ろした横浜に、

東京大空襲の2倍近い600機以上の

B29と戦闘機が空襲を開始します。

横浜大空襲が東京大空襲と何より違うのは、

時間帯が昼間であること。

寝込みではないので、東京の時よりも

逃げ遅れは少なかったかもしれません。

実際、東京大空襲以上の爆弾が投下されても、

死者数は東京には及びません。

しかし、仕事や学校で、

家族が離れている時間帯でのこと、

行方不明者は東京大空襲を超えるという

一説もあるそうです。

そして大量の爆弾から逃げ惑う人々を、

戦闘機の機銃正射が襲います。

ポーリンのいる国民学校の付近は

特に標的にされました。

付近では、高架駅の下に人々が避難したところ

  駅の真上に焼夷弾が落ち、

灼熱の滝に500人が焼かれたそうです。

昼間空襲の犠牲者は、日本人だけではありません。

闇に隠れることのないB29、

70機あまりが、高射砲で撃墜されました。

撃墜された飛行機は、それ自体が凶器となって

人々の頭の上に落ちてきます。

遠く離れた敵国に落ちた米兵たちは

最期の瞬間に何を思ったでしょう。

「トルーマン大統領万歳!」と

叫ばなかったことは、確かだと思います。

日米の子の、人形に託した思いにも関わらず、

米国の軍人は、

その人形の上に爆弾を落としました。

日本人の大人は、その原因を作りました。

この悲惨極まる空襲の被災者数は31万人、

当時の横浜市民の1/3にあたるそうです。

しかし、この歴史的事実は、

東京大空襲の陰に隠れ、あまり知られていません。

過去に、明治、大正につくられた歌と、

その歌とともに人が歩んだ戦争の歴史について

記事にしました。

「ゆりかごのうた」では、

私は、二度と悲劇が起きないことを祈る

と書きました。

「花」では、現在の平和に感謝する、と。

「青い目の人形」は、私たちに、

過去の史実を知ることを

求めているように思えてなりません。

そうそう、ポーリンの本物は、今も無事、

西区の小学校でちゃんと保存されています。

写真も、ご覧になって下さい。

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コメント

すとれちあ。さん
なんだか読みながら胸が痛くなる、とても
考えさせられました。
自分が知らなかったことが沢山・・・
今度横浜を訪れた時、歩いてみようと思います。
ありがとうございました。

投稿: ゆめ | 2009年5月31日 (日) 21時27分

先日、車だったので銅像は見れませんでしたが
ポーリン橋の下を通りました。
本当に私はあまりにも無知すぎるんですけど
そういう歴史があったいうこと・・・
私と同様に知らない人もきっと多いのでしょうねえ・・・

過去から大切に受け継ぐものの
本当の想いや願いをしっかりと私達も次世代に
受け継がないといけないですね!
本当にいつも勉強になります!!

投稿: ぴぐもん | 2009年6月 1日 (月) 01時11分

こんばんは
いまでも日本に残る青い目の人形達は、約80年間の世界の動きをじっと見守っているような気がします。悲しい歴史が繰り返されないことを切に願います。

ところで、埼玉県出身の「渋沢栄一」
ワタシは仕事で渋沢栄一翁の顕彰をしていたことがあるのですが青い目の人形を介した「日米親善」を行った中心人物がこの人であることは知られておりません。渋沢栄一はアメリカへの「答礼人形」をアメリカに送っています。
戦争によって、両国の人形、特に日本に送られた青い目の人形のほとんどが失われてしまったのは、本当に悲しい史実です。
日米両国に残された人形達の平和への思い、受け継いでいきたいものだと思います。

投稿: ゆうまま | 2009年6月 1日 (月) 20時59分

ゆめさん
ぴぐもんさん
ゆうままさん
この記事を読んで下さった皆様

おじゃりやれ

本当は個別にコメントを書きたいのですが、
この件については、思うところ多々あり、
6月2日正午に「後記」のようなものを書かせていただきますが
それに代えさせて下さい。

ゆめさんへ
横浜に限らず、悲しい歴史はありますよね。
それを踏まえたい、踏まえてほしいと思って書きましたが、
基本、横浜は(東京など他の町もですが)
楽しい箇所たくさんの素敵な街です。
ポーリン橋も、その「素敵」の一役を担っています。
是非、楽しんで下さいね
(その素敵は、平和への最高の一歩だと思います)。

ぴぐもんさんへ
私もとっても不勉強ですが、
横浜大空襲を知らない横浜市民は多いですよね。
知らない人が悪い!のではなく、
ちゃんと伝えなきゃ知らなきゃ、と思います。

ゆうままさんへ
恥ずかしながら、私も渋沢栄一氏については
教科書以上の知識は何も持っていません。
歴史が好き平和が大事と言っておきながら、
ちょっと恥ずかしいことですね。
調べてみようかな。
いい宿題をもらいました。ありがとうございます。

投稿: すとれちあ。 | 2009年6月 2日 (火) 10時50分

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