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2009年9月

「カッコいい」女性って?

想像してください。

路地の一角、電信柱の陰で、2人の男女が口論しています。

2人とも大人、恋人同士のようです。

口論は次第に白熱してきました。

と、突然女性の方が、男性に平手打ちをして、

その場を去ってしまいました。

どうでしょう?この女性にどんな印象をもちますか?

恐らく、回答者のほとんどが(男女問わず)

「強い、カッコいい」などの、好印象を抱くと思います

(もちろん、諍いの経緯にも寄るのでしょうが)

私も、そんな印象をもつ1人。

でも、それでいいのでしょうか?

逆に、男性が女性に手を上げてその場を去ったら、

恐らく、誰もが非難するでしょうに。

諍いの内容は分かりませんが、恋人同士なら対等の関係。

同じ行為をして、片や非難、片や喝采では、

到底、対等な関係とみなしているとは言えません。

そう、対等な関係だとしたら、最初に来るべき印象は

「暴力はいけないよ」ではないでしょうか。

私たちは(恐らくは男女ともに)、意識下に、無意識に、

女性を男性よりも弱いもの、ととらえています。

体力的にであれ、社会的地位であれ。

しかし、ならばどうして、出産や授乳は

女性にしかできないのでしょう?

長寿だったり、老後を楽しむのは、概して女性の方です。

体力や社会的地位では男性の方が勝っていたとしても、

それはほんの一面的な「強さ」でしかありません。

ですが、上に述べたように、

私たちは、女性を弱いものという観念をなかなか拭えません。

だからでしょうか。

「カッコいい」「強い」というイメージを女性に求める時、

そこに昔の男性の、既に時代遅れとなったイメージを

あてはめてはいないでしょうか?

暴力を振るうような男性には、今や誰も好意を持ちません。

男性の強さ、カッコよさは、そんなところではないですよね。

明るくて優しかったり、誰に対しても誠実だったり、

体力だって、ないよりはあった方がいいけど、

せいぜい+αと言うか、オプション程度の価値。

なのに、女性に求める「カッコよさ」が旧態依然としてたら、

いつまでも女性は、男性より遅れた存在にしかなれません。

「これからの女性は!」なんて頑張っている人が、

やっていることは結局、男性の(悪いところの)真似、

なんてケースもよく見ましたが、悲しくなってきます。

私なら、「これからの女性は…、男性にも見習われる、

そんな素敵な生き方を築いていこうよ」と言いたいですね。

別に、昔ながらの

「おしとやかな女性」だけがいいとは言いません。

個人的には、マッチョな女性は、好きです。

仕事をバリバリこなす女性も、いていいと思います。

でも、それだけが「カッコいい」女性ではありません。

やるべきことをやって、やりたいことをやっている女性、

自分や身近な人を大切にできる女性、

それなら、老いも若きも、独身でも既婚でも、

キャリアウーマンでも主婦でも、子がいてもいなくても、

そう、いっとき流行った「勝ち組」でも「負け組」でも、

「カッコいい」女性なんじゃないかな、と思います。

あ、これ、男性にも言えますけどね。

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勝浦に行ってきました

(?)タレントの酒井法子さん関連の話題が多いですね

そんな、日本がひっくり返る事件でもなし、

タレントの薬物事犯や別荘の火災に、

ことのほか騒ぎ立てることもなかろうに、と思います。

が、そんな私でも、ちょっとはテレビに目が行きました。

と言うのも、別荘が燃える直前、

勝浦の親戚の別荘にお呼ばれしたから。

今日はこの日の思い出を書きます。

子もんすてら。と土曜日から実家に泊まった翌朝、

父と姉の子がじゅまる。と父の車で出発しました。

運転は、もちろん父。私は後席で子守り係です。

高速代、ガソリン代は全額父負担。

帰りは久里浜からフェリーで、我が家まで送迎、

という段取り(親に甘えるのも親孝行?)

しかし、勝浦は遠いですね。

自分が運転しなくても、結構疲れました。

そして着いたのが、こんな別荘地。私の実家は貧しいのに、

どうして親族はこんなモノを持てるんでしょう?

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そして勝浦まで来たら、

私ともんすてら。やることは決まっています。

そう、海へ直行です。

いつもの内海と違って、波もあるし、水もきれい。

そして、9月中旬の海って、真夏より温かいんです。

ちょっと気をつけて、楽しい海水浴。

浮輪に座って、お腹にもんすてら。を乗せ、

手をオールにすれば、ちょっとしたボート遊びができます。

調子に乗ってかなり沖まで行ってしまいました

(全然気をつけてないじゃん)

海に不慣れながじゅまる。は、波打ち際で父と遊びます。

それでも、滅多に来れない海を満喫できたよう。

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前の記事、再投稿で友人かめりあ。のことを書きましたが、

実は、私たち、いつも外房で波乗りをしていたんです。

ワタクシにとって、この海もそんな思い出の1ページ、

って記憶から、先日は再投稿させていただきました。

しかし、房総半島の地名、分かりにくすぎ!

この海は興津(おきつ)、「こうづ」とか読みそうだし、

長生(ちょうせい)は、普通に読めるけど、

「そんな読み方でいいの?」って自信持てないし、

天津小湊(あまつこみなと)に至っては、

もはや日本だか中国だか分かりません

なんて話も、よくかめりあ。としました。

ま、彼は読み方の正誤とか気にしない人なので、

テキトーに地名を言ってましたけどね。

↑このパラグラフ、地元の方ごめんなさいm(_ _)m

海で遊んだ後は、叔母の手料理をいただき、

近くの池に飼い犬(ミニチュアダックス)と散歩。

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実家でも犬を飼っているので、

子ども2人の犬扱いは慣れたもの。

と言うか、慣れ過ぎて乱暴…、ちょっとハラハラ。

そして戻ってみると、家に置いてきた父と叔父、

男二人で出来上がっていましたε-( ̄ヘ ̄)┌

(泥酔の状態を「出来上がる」と言いますが、

この場合の「でき」は「溺」の方が適切ではないか、

と思うのは私だけでしょうか?)

結果、ワタクシが東京の実家まで運転するハメに

(もちろん、その日のうちに横浜まで電車で帰らないと)

うぅ~、明日も仕事、早いのに~。

ま、子どもたちにいい思い出を作れたから、いっか

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再投稿~私のライバル

私には、ライバルがいます。

名は、かめりあ。

競う種目は、どちらが人生を楽しめるか。

かめりあ。は、よく言えば自由人、

悪く言えば大人になれない大人…。

かめりあ。と行動を共にしたのは、主に大学時代。

勉強を面白いと感じ、

図書館にいる時間が長かった私と

そんな、現代版ハックルベリーのかめりあ。

対照的でしたが、

二人は「海が好き」で通じていました。

介護施設で働くかめりあ。は、

平日・日中でも非番が多く、

いつも「海が呼んでる」と言っては、

錆だらけのヴァンにボードを積んで、

外房や下田に出向いていました。

そんな彼からの電話はいつも突然。

「すとれちあ。いい波が来てるんだ」

「ごめん、今日試験だから」

と言っても、かめりあ。には通用しません。

「試験は次がある。でも、

同じ波は二度と来ないんだぜ」

・・・ワケわかりません(_)

が、彼のペースにまれてしまう私、

ヴァンの中で、車酔いと戦って試験勉強。

そして大学、まだ波とヴァンに揺られてる感覚で

答案を書き連ねました。

彼はよく言いました。

「俺はいつも海の上ボードの上だが、

おまえは半分は机の上の人生だ。

死ぬ時、どっちがいい顔で死ねるか、競争な」

そんな学生も終わり、私が大学を卒業した直後、

彼はバリ島クタの波を求めて日本を発ち、

の後音信が途絶えました。

あれから10年近く。私ももう、波乗りはしません。

海に行くのは月に23回。

休日に、子もんすてら。と散歩する程度です。

でも、私はいつも、

人生を楽しむことを頭の片隅に置いています。

いつか、ひょっこり帰ってきた彼より、

もっといい笑顔でいたいから。

その時は一発ひっぱたいてやりますけどね

このブログを始めて、最初の頃に書いた記事です。

100万分の1の確率ででも、

かめりあ。がこれを目にして、連絡をくれたら、

なんて淡~い期待を持っていましたが、

やはりあれから何の音沙汰もありゃしません

ひっぱたく手が、パーからグーになってます

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同調圧力

先日書いた「精神論」の中で、

精神論が嫌われるのは、約70年前の戦争の時、

「愛国心」「大和魂」などと、

それを強いられた記憶ではないか、しかし、

本来の精神論はそれとは全く異質、と書きました。

いわば、「精神論」は、同姓同名の他人の罪、

戦犯の濡れ衣を着せられたようなものだと思います。

しかし、「精神論」とは違うところで、

過去の戦犯が、名を変えて今ものうのうとしている、

そんな気がしてなりません。それは、「同調圧力」。

読みかじり、聞きかじりの知識に過ぎませんが、

当時、戦争を推進していたのは国や軍部だけでなく、

国民も少なからずそれに応じていた、ということです。

いや、当時の「精神論」だって、同調圧力があったから、

あれだけ幅を利かせたんだろうし。

当時の情勢・体制からして、戦争は避け得なかった

としても(これは、私にはもはやわかりません)

国民がもう少し冷静だったら、

悲劇はいくばくか小さかったのではないか、と思います。

つまり、国民は被害者でありながら、加害者・・・

(ちょっと乱暴かもしれませんが、私の見解です)

そして今、KYという言葉が流行するほど、

「空気」って存在が大きく意識されています。

ところが、この「空気」、空気ですからね、

普段はそんなに意識しないんです。

KY、「空気が読めない」って言葉のとおり、

その「空気」と人の折り合いが悪いと、意識されます。

人は助け合って生きる存在ですから、

「共感」ってものがないとなかなかうまくいきません。

だから、「空気」ってとても大切なもの、だと思います。

日本人は「言葉がなくても」を重んじるから

なおさらだけど、

「空気」がない社会は、世界中どこにもないでしょうね。

しかし、「空気」と人間、どっちが大切でしょうか。

人が生きるための「空気」ですからね。

神輿みたいに

「空気」を支えるために、人がいる訳じゃない。

だから、「空気」が人を押しつぶしちゃいけません。

人は、「空気」に押し流しちゃ、いけません。

「空気」はあってもいいけど、万能ではありません。

色んな人がいて、色んな事をしたり、考えたりして、

そして、人も社会も、いい方向に向かうんだと思います。

人と人との関わり、

もう少しゆったりと楽しみたいものですね。

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腰痛…(--;)

保育園で働き、家では育児の日々、

子どもを抱くか、パソコンに向かうか、掃除をするか、

その繰り返しが私の生活です。

夏の初め頃、何か腰に違和感…、って思ったら、

それは数日のうちに痛みに変わり、

動作もしづらく、時には右大腿に痺れまで。

学生の時、椎間板ヘルニアをやったことがあるので、

その時の記憶が鮮明に蘇ってきました()

(遠い昔のことなのにねぇ…)

さて、公私ともに腰痛になるだけの生活、ということは

公私ともに腰に負担のかかる作業が多いってこと。

この生活を、腰をかばいながらするとしたら、大変です。

腰痛は、介護の仕事の職業病として有名ですが、

保育の仕事も、違う意味で腰を苛めることばかり。

介護と違って、相手の体重は軽いけど、

トランス(人の移乗)をすることはないけど、

飛んだり跳ねたり、子を高く抱き上げたり、

視線を合わせるために屈んだり、

中途半端な高さの子ども椅子に座ったり、

そんな一つ一つが、ジャブのように腰に来ます。

加えて、私は(一応)経理、デスクワークが主なので

「動」ではなく、「静」の負担も、じわじわと…。

職業病であるからには、周りの人間も同じ悩みを持つので、

「同病相哀れむ」、理解はしてもらえるのが救い。

学生時代にお世話になった気功に行ったら、

一応痛み&違和感はなくなったけど、

何だか爆弾抱えちゃった気分。

到底重い物をもったり、走り回ったりする勇気がない。

平日は仕事としてプール、休日は子もんすてら。と海、

ほぼ毎日水に浸かる生活も、冷えを恐れつつやってます。

うーん、年寄りに近づいている気がするなぁ。

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精神論

幸せになりたい、そのためにスローライフ、

って思いで、時には硬い内容も書いています。

エコやら、平和やら、時には文化やら、

育児をしつつ保育園で働く身として、育児・保育やら、

そんなのを統括している政治やら。

そのどれもが、とても重いテーマだと思います。

これに対して思うのが、

「私の手に負えるものじゃないんじゃないか」ってこと。

正直なところ、このどれに対しても、

私はエラソーに言える見識など、持ってはいません。

大して知らないくせに、言っている。

そしてそれは、そんなに的外れではないって自信がある

(もちろん、反対意見はあると思います)

これは、私が述べるのが「精神論」だから。

専門的な技術論に踏み込んでいないから、です。

ずるいでしょうか?

アタマだけなら何とでも言える、と言われそう。

ですが私は、人間が何かをする時、

一番大切なのが「精神論」だと思うんです。

精神論って聞いて、私たち日本人の中には

アレルギーみたいな反応が起こったり、します。

きっとそれって、約70年前の戦争の時、

何でもかんでも「愛国心」「大和魂」を圧しつけられた

そんな記憶があるからだと思います。

でも、よくよく考えてみると、

一緒にいたい家族を引き裂いて、

死にたくない人を戦場に駆り立てる、

それを「愛国心」「大和魂」で正当化していた。

こんなに「精神」を無視した「論」はありません。

この記憶で、イメージが悪くなったなら、

「精神論」は全くの冤罪ってものです。

「精神論」って、身近な言葉で言い換えれば「心がけ」

何事も、「心がけ」が大切じゃないですか。

例えば、育児で言うなら、

オムツ交換も、授乳も、育児に関する全ての技術に長けた

しかし愛情の全くない母がいたとします。

彼女は、いい育児をできるでしょうか。そうは思えません。

物事は、技術だけでは成り立たないのです。

これ、エコだって政治だってそう。

「自然を大切にしなきゃ」ってみんなが思わないと、

どんなエコ商品だってエコは実現できないし、

みんなが「いい社会にしたい」って目をもたないと、

どんな政治家も政党も、いい政治なんてしません。

更に身近な例で言えば、熱意のない恋愛、

考えただけで気分が悪いですよね。

仏作って魂入れず、なんてことわざもあります。

世の中どんどん複雑でハイテクだけど、

「本気なら気持ちから」変わらずにいたいと思います。

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小田急ロマンスカーⅡ

前にも書きましたが、(リンク

子もんすてら。は小田急ロマンスカーが大好き。

昨日、新聞で読んだのですが、

昨年新しくできたロマンスカーの電車(MSE)が

ブルーリボン賞なるものを取った、とか…

(どんな賞かよく分からないけど、その前年にできた

一番「素敵な」電車・列車が受賞するらしい)

朝、新聞記事を見るなり、すぐもんすてら。に見せました。

自分のことのように、誇らしそう。

何しろ、将来自分が運転する電車ですからね

(但し、もんすてら。はのVSEが好きなのであり、

本人いわく、MSEはあくまでも、その「仲間」なのだとか。

アンパンマン好きな子にとっての、

カレーパンマンみたいなものでしょうか)

の中で、もんすてら。がVSEの展望席で眺めている、

車庫に停まっている青いのがMSEですが、

何と、選考者の6割がこれに投票したというから、

最近よく聞く言葉、単独過半数ってヤツですね。

他には、どんなのが選考対象だったのか知りませんが、

すごいことと思います(何かが一人勝ちする結果は、

個人的にはあまり好きではありませんがね)

そして、もんすてら。が生まれた4年前、

この年に受賞したのも、ロマンスカー。

もんすてら。の大好きなVSEです。

何よりすごいのが、私が生まれるより(ずっと)前、

この賞がつくられたきっかけも、

初代のロマンスカーのデビューだとか。

小田急ロマンスカーは、もはや、電車と言うより

キャラクターではないか、なんて私は思っています。

電車と言うと、「速さ」とか「快適さ」で

比較されますが(少なくとも、大人目線素人目線には)

こんな存在感の表し方も、アリかもしれませんね。

なお宣伝までに。

私の友人aramiさんは

(もんすてら。は「電車のせんせー」と呼んでいます)、

MSEの電車のデビューの日に乗ったそうです。

いやぁ、すごい情熱だ

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あの時彼は英雄だった

10年前の今日のこと。

彼とは、当時のアメリカ大統領です。

そう、あの事件直後、彼は、絶大な支持を受けました。

テロの行為者に対し、「アメリカの敵」「戦争だ」と

声を大にし、多くの人が賛同しました。

自国民からも、そして私たち日本人からも。

そしてその後の彼の政策とその支持については

まだ新しい、と言うより現在の記憶です。

政治について、善し悪しは言わないつもりですが、

(って言うか、言えるほど分かっていない…)

彼の支持の変遷は、果たして何を物語っているのでしょう。

私はどちらかと言えば、所謂KY、空気の読めないヤツです。

が、全く読めない訳ではないので、

「空気とは何たるか」は一応、分かっているつもりです。

その私の記憶では、あの日以後、

テロや中東へのヒステリックなまでの嫌悪が高まりました。

そう、大統領の醸す空気を、みなが読んでしまった。

覚えてますか?あの後、イラクを攻撃する前、

これを非難したフランスに抗議し、

全米でフランスワインをドブに流す運動まで起きましたね。

その後、アメリカ人は、ワインよりも遥かに多くの血を、

更に多くのイラク人の血と一緒に流してしまったのですが。

人は、お互いに助け合ったり、尊重しあって生きるものです。

だから、「空気を読む」のは、本来美しいものだと思います。

でもそれは、それこそ助け合ったり、尊重したり、

そんな局面で使うなら、と条件をつけたいと考えます。

例えば、失恋や家族の病気で塞いでいる友人の前で、

それを知ってて楽天的に振る舞うのは、

決して褒められた行為ではありません

(時にはそんな元気づけもアリですが)

みんなで楽しく団欒している時に、

過去の過ちを不用意に口にするのも同じです。

ここで読むべき空気は「なさそうで、ある」のです。

ですが、これが配慮を超えて、

善悪などの判断に至ると、話は変わってきます。

家族や友人、仲間は大切にすべき、

と言うのは絶対に変わらない価値だと思いますが、

何が正しい、何が悪い、という価値は、

人によって時と場所によって、様々です。

善悪についての判断を、空気に捕らわれてはいけません。

政治だってそう、例え憎むべき犯罪があっても、

素晴らしいと思える英雄がいても、

そこで語られる善悪は、必ず違う見方ができます。

「絶対に~だ!」と言えるような単純な事柄は、

政治的に問題になるはずがないのだから。

もしここで、みなが同じ方向を向く「空気」があったら、

いや、そんなものは「ありそうで、ない」のです。

あの時、彼を支持した人で、今も間違っていなかった、

と胸を張れる人はどれくらいいるでしょう?

政治は、今だけでなく、未来にも影響します。

未来を予測できる人なんていませんが、

せめて、今の空気に振り回されずにいたいものです。

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鉄道博物館に行ってきました

夏休みに、大宮の鉄道博物館に行ってきました。

もちろん、電車大好きな子もんすてら。と

姉の子がじゅまる。を連れて、です。

いつもは家の近くの市電保存館に行っています。

それが普段のお出かけ、公園だとすると、

家から遠く、入場料も10倍の1,000円、

ディズニーランドに行くようなもんです、

ワタクシ達にとっては…

ちょっと肩の力が入っていたりして…。

ぶっちゃけた話、いろいろと残念でした。

比較する対象が間違っているのかもしれませんが、

いつもの市電保存館に比べると…

まず、大人目線では、商売っ気がプンプンします

博物館と言うより、鉄道をネタにしたテーマパーク…、

入場料1,000円なんだから仕方ないかもしれません。

が、それを言ったら、私は入場料の高いところには、

(お金の勘定を抜きにしても)

子どもを連れていきたくありません。

何と言うか、「鉄道博物館」と銘打っておきながら、

そこにあるのは、鉄道と言うより、JRばかり。

何だか、私鉄は鉄道じゃない、と言わんばかりな

最大手の奢りのようなものを感じてしまいました。

それに、展示物のそこここに

(新幹線などの)JRはすごいんだぞ」と言う、

技術のひけらかしも…。

ワタクシ、物事を斜めに見すぎでしょうか?

もんすてら。が好きということを抜きにしても、

私も鉄道は、好きです。

が、それは旅情とか、沿線の人の生活とか、

そんな、鉄道と「人」との関わりが好きであって、

鉄道そのものがどれだけすごいか、なんて

人を置いてけぼりにしたアピールには、

何の魅力も感じませんでした。

そして子ども目線。

これも、やはり惨憺たるもの

(但し、周囲の子は楽しんでいたようなので、

私の連れた2人がひねくれているかもしれません)

と言うのも、(市電保存館に比べて)展示物ばかりで、

子どもが触れるものが少ないんです。

子どもって、見るのも好きだけど、

見たものをやっぱり触りたいじゃないですか。

大きな鉄道模型のジオラマは確かにすごいけど、

動き回って自由に見れる市電保存館のそれとは違い、

見る場所が劇場みたいに席に着く方式。

お行儀よく見ないといけないんですね。

でも、子ども(だけじゃないけど)って、これだけのジオラマ、

あっちから見たら、こっちからも見たいもの。

トンネルに入る電車を見たら、向こう側も気になりますよね。

それを、「お行儀よく見ましょうね」ったって、

途中で飽きてしまいました…。

それは、(幼児に関しては)周りの子も同じみたいですね。

帰り道の会話

私「面白かった?」

子ら「面白かった!」

私「また来たい?」

子ら「いつもの方(市電保存館)がいい!」

まぁ、財布を握る方としても嬉しい感想ですね。

辛いことばかり書いた罪滅ぼしに

鉄道博物館には、1つエールを送りましょうか。

私は、エコとか文化とか、いろんな意味で、

鉄道が果たす存在感はこれからも大きくなると思います。

ましてや、1,000円で乗れる高速道路の商売敵としては

新幹線には頑張ってほしいところ。

だから、子どもたち(大人も)には、もっともっと、

鉄道好きになってほしい、なんて思っています。

これには、この鉄道博物館が果たせる役割は

とっても大きいはず。

私たちの未来のためにも、

たくさんの子どもたちを楽しませてほしいな。

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スローライフの醍醐味

スローライフを目指しているワタクシ

(できているんじゃありませんよ。あくまでも)

例えばこんな生活をしています。

夜はちょっと早寝、朝はちょっと早起き

(新聞配達さんとかに比べたら全然…、です)

食事はなるべく薄味、揚げ物や外食はしない、

朝昼は腹8分目、夜は6分目くらい。

酒も煙草も一切なし、甘いものは大好きだけど、

ほとんど自分か知人の手作り。

テレビはほとんど視ません。

バルコニーには亜熱帯植物を並べた天然のカーテン、

このため、真夏でもエアコンはつけません。

休日の過ごし方は、子もんすてら。と海や山、

テーマパークなんてほとんど行かない。

って生活は時々、こんな質問・コメントを受けます。

「そんなに細く長く生きたい?」

「私なら、短くてももっと人生楽しみたいな」

なるほど、確かにスローライフって、

細く長く、的なイメージがありますよね。

私自身、「長い人生、今日明日だけじゃなくて、

トータルに見て最大の幸せを得たい」って思い、

これを考えたら自ずと形になったのがこんな生活

(因みに、スローライフなんて言葉を当てはめたのは

このブログでのこと。私自身は特に

この生活様式に名前は付けていません)

持たれたイメージは、決して的外れではありません。

しかし、別に私は長生きが目的でも何でもありません。

あくまでも「長い人生の最大幸福」が目的です。

そりゃ、早死によりは長生きの方がいいですけどね。

私が一番得たいのは、そんなものじゃない。

それは、自然や文化を楽しみたい、ってこと。

自然や文化と乖離した娯楽、たくさんありますが、

そしてそれは、とても手軽に楽しめますが、

これを楽しんだ後、何かが虚しくなったりします。

(恐らくこれからも長くなるであろう)人生で、

これを楽しみ続けることができない気がするのです。

一方、自然や文化を楽しむことは、

これを楽しみ続けることができそうです。

続けても飽きることもなさそうですし、

むしろより深い世界を楽しむことができそう。

しかしこの娯楽、敷居が高いとは言いませんが、

さっきの娯楽ほど、親切でないことも確か。

遊べば「誰か」の売り上げが上がるさっきの娯楽は、

その「誰か」が、上げ膳据え膳で私たちに

「わかりやすさ」を提供してくれます。

しかし、自然や文化を楽しむ娯楽は、

私たちに、それなりの「準備」がないと

それを楽しめなかったり、時には危険だったりします。

その「準備」に適した生活、と考えたら、

自ずとこんな生活に行きつきました。

生き物としてのヒトが本来すべき生活、

つまり健康的な生活をしたら、自然も、

自然と人間との関わりから生まれた文化も、身近になる。

健康も、自然や文化を楽しむのも、

根は同じなのは、あまりに当然って思うんです。

長い人生、

細く長く、ではなく、太く長く生きたい、

そんな思いで、スローライフを志しています。

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保育園、遅刻のできないもんすてら。

子もんすてら。は突発的なことが苦手。

得意な人もそうそういないかもしれないけど、

これに関しては、私に似て、本当にダメなんです。

脳味噌が処理不能になってしまうというか。

とりわけ、都合のいい話ではありますが、

嬉しい突発事項は喜べるけど、

嫌な突発事項に直面すると、

どんなことになるか、予想もできません。

これ、私も含めて、単なる性格上のものというより、

脳味噌の構造上、「何か」があると私は思っていますが、

それはまた、改めて書くとして、

日々の中で困るのが、「保育園の送迎」。

例えば、子どもがちょっと具合悪くて

小児科に寄ってから登園、とか

通勤時間にちょっと余裕があるから

ゆっくり登園、とか、よくあると思います。

が、もんすてら。はこれができません。

いつも同じ時刻に起床し

(私が無理やり起こしているんですが)

毎朝同じ流れで食事や歯みがきをし、

NHK教育の「いないいないばぁ」の途中で

家を出発し、ここなつ保育園に登園します。

が、過去に何度か、上みたいな理由で

遅刻をしたことがあります。

保育園にあまり行きたくないもんすてら。

家にいる時は、「嬉しい朝」なのですが、

保育園に着くと、様子が変わります。

何と言うか、赤ちゃん状態。

泣きながらぐずって、私から離れません。

こうなると、根性なしの親はダメですね。

ズルズルすればするほど、

悪循環なのはわかってるけど、なかなか振り切れない。

こんな光景、職場では日常で見ているし、

自信をもって保護者から子どもを預かっている。

保育室で、親恋しさにいつまでも子は泣きません。

頭では分かっていても、なかなか…。

いっそ、「今日の仕事、休ませて下さい」って

職場にtelしちゃう方が、よっぽど楽。

でも、そんなことしたら、絶対後悔する。

結局、しばらく格闘の上、

保育士の腕の中、泣くもんすてら。を背に

園庭を横切り、門を出ます。

背中が、焼けるように、痛い…。

と言う訳で、通院も用事も、

行くとしたら早退、それしかない。

そんな我が家の登園事情でした。

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倫理=損得勘定

私は、先人の教えって大切だと思います。

それは多くの場合、「倫理」とか「道徳」

ってカテゴリーに入りますね。

そう、倫理や道徳が好きです

(実践できているかは、全くの別問題…)

これを好きな人、嫌いな人、いると思います。

どちらが正解、というものではありませんね。

でも、好むと好まざるとに関わらず、

倫理的行動を損、自己犠牲的なもの

と考えている人がほとんどではないでしょうか。

私はこう考えます。

先人が、ことわざ等の形で、

私たちに倫理的な教えを残した経験は

どんな時になされたのでしょうか?

恐らく、「~しといてよかったじゃん」

「~しなけりゃよかったよー」って時、

誰かが口にしたのだと思います。

そう、そこにあるのは、間違いなく損得勘定。

例えば、「情けは人のためならず」

「突き放すのが相手のため」って意味じゃないですよ。

「人にかけた情けは、自分に戻ってくる」って意味。

これだって、(どんな形でかは知りませんが)

実際に、嬉しいことをしてもらえたんでしょうね。

得した経験があったから、教えとして残ったと思います。

ただ、先人の教えがこうして意味をなすのは

1つ条件があります。

それは、短期的損得と長期的損得が背反する時。

言い換えれば、短期的損得に流れるより、

長期的損得を取った方が得が大きい時にだけです。

例えば、お腹が空いた時に家族が作ってくれた食事、

これを食べちゃいけない、なんて教えはありません。

短期的得は「食べたい」ですが、長期的な得も同じですから。

教えが教えとして存在する必要性がありませんよね。

放っておいても、誰もが「得な行動」をします。

一方、「良薬口に苦し」のように、

短期的には「服みたくない」でも、

長期的には「服んだ方が得」な状況下で、

教えは意味をなします。

教えを残してくれた先人の経験が

損得勘定に基づくものだとすると、

それを「損」としか見られない現在の私たち、

それって即ち、先人の教えに背反するような

短期的な見方に偏っている、って言えませんか?

お金や物質的な得だけが得ではない、

例えばゆとりとか、もっと精神的なものとか、

そんな得もある、いやそれこそが本当の得、

って思いますが、いかがでしょうか?

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