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もうひとつのロマンスカー

部電車好きな我が子 もんすてら。

とりわけ好きなのが、小田急ロマンスカー。

何度かこれについて書きましたね。

鉄道が好きな方や沿線にお住まいの方でなくても、

ご存じの方は多いと思います。

ロマンスカーと言えば小田急、小田急と言えばロマンスカー、

その名前を、ほしいままにしています。

ですが、この小田急ロマンスカー、

私たち横浜市民にはほとんど縁がありません。

乗ることはおろか、見る機会すらあるかどうか…。

ところが、横浜にも、ロマンスカーが走っていたんです。

今日はその、もうひとつのロマンスカーのお話。

皇紀2600年の4年前の昭和11年、

横浜市民の足、市電に新しい車両が導入されました。

従来にはなかった流線形のスタイル、

進行方向前を向いて座るクロスシート、

斬新でモダンなその電車は、市民から愛称をもらいました。

そう、「ロマンスカー」です。

きっと、震災からひと回り、頑張って立ち直った市民には、

ちょっとしたごほうびのようなものだったのでしょう。

ちょうどその頃、市電に女性車掌が登場しました。

今とは違い、運転手も車掌も、男性ばかりの世界、

女性車掌は、今ならキャビンアテンダントのような

人目を引く華やかな職業だったようです。

ロマンスカーと女性車掌、これらにはファンも多く、

ロマンスカーが来るまで電車に乗らない人、

女性車掌の電車まで駅で待つ人も結構いたとか。

もしかしたら、「女性車掌のロマンスカー」が来るまで

頑として待ったツワモノもいたかもしれません。

横浜市電の百花繚乱の時代。

あくせくしない人々の、ゆったりした時。

しかし、時は残酷でした。ロマンスカーの誕生から5年、

日本がアメリカと始めた戦争は、

運転手や男性車掌を戦場に連れ去り、その代わりに、

大挙たる爆撃機となって横浜の空を覆いました

先の女性車掌が運転台に座り、

勤労動員された女学生が車掌を務めます。

市電は、専ら女性が動かすものとなりました。

広い大通りをゆっくり、レールの上しか走れない市電、

人を乗せて市心部を走る市電は、格好の標的でした。

ロマンスカーだって、例外ではありません。

ある車両は、井土ヶ谷の橋の上で爆撃を受け、全焼しました。

焼夷弾を落とされ、後ろ半分が燃えた電車で、

運転手と若い車掌が、女性二人、助け合い励ましあい、

それでも車庫まで戻ってきた、

そんな嬉しくなる逸話も残されています。

そして戦後、市電は戦災からの復興の一役を担い、

路線も、網の目のように延長され、

ロマンスカーより新しい車両も投入されました。

そんな中、女性車掌はワンマン化で姿を消しましたが、

ロマンスカーは相変わらず、華やかな存在だったようです。

そして昭和47年、人々に惜しまれて市電が廃止されるまで、

ロマンスカーは走り続けました。

戦前、戦中、復興と高度成長、

激動の昭和を文字通り駆け抜けたクリーム色のロマンスカー。

今は、横浜市電保存館で、第二の人生を過ごしています。

もう「市民の足」ではないけれど、

ロマンスカーの名は、小田急にほぼ譲ったけれど、

爆弾の降ってこない空の下で、子どもの遊び相手

そんな生活もまんざらではない、

と思っているのではないでしょうか。

Romancecar

車内に入ると、当時の女性車掌の声が聞こえてきそうです。

「次は~八丈島温泉、八丈島温泉

Photo_2 

一日の仕事を終えたロマンスカーの後輩たち、やっぱり同じ色。

今でも市民の足、お疲れ様。

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