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2010年4月

人は概念化できないものを恐れる

今は性同一性障がいや同性愛等が認知されつつありますが、

それでも、「らしくない性別」所謂オカマオナベや

それに近い人、行為を「気持ち悪い」と言う人はいます。

ひと昔前は、もっと顕著でした。

でも、何が気持ち悪かったのでしょうか?

私の知る限り、それは

「人は概念化できないものを恐れる」からだと思います。

男は男、女は女、私たちは他人を見る時、

相手がどんな人であれ、必ずその「性別」を見ます。

性別に縛られずに、「相手そのもの」を見るのは

何と難しいことでしょう。そして、所謂オカマオナベは

この両方に属さないから、「見る」ことが難しい、

その拒否反応として、「気持ち悪い」と感じてしまうのです。

ひと昔前に比べて「気持ち悪い」と言わなくなったのは

性同一性障がいや同性愛を括る、

「第三の性」と言う概念ができたからに過ぎません。

性だけではなく、同じことがいろいろ言えます。

動物か無機物か分からない物があったら、触れますか?

虫か植物か分からない物があったら?

万事、私たちは「概念」でものを認識して、

「安全である」と認識したものにだけ、心を許します。

概念化できないものは、ひとまず

「危険である」と認識した概念と一緒に

警戒の対象に入れてしまうのです。

これは、私たちの自己防衛の本能でしょうね。

ただ、概念はあくまでも概念、そのものではありません。

例えば、世間に認知される前から、

性同一性障がいや同性愛そのものはありました。

ただ、概念として括れなかっただけなのです。

それを、概念として括れないから、と除外すること、

果たしてそれは、正しかったでしょうか。

きっと、多くの人を苦しめたことでしょうね。

私たち人間が、最も愛用する道具、

それは、剣でもペンでも箸でもなく、

それを持つ右手でも大地を踏む足でもなく、

脳内を駆け巡る「概念」だと思います。

お陰で、私たちは容易に考えたり、知ったりできます。

ただ、概念は「ものそのもの」とは違います。

これだけに頼っていると、

世界が閉じてしまう、物事の本質が見えなくなる、

そんな気がします。

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氷川丸生誕80周年

の、記念イベントに、先日の日曜日、

行ってきました(ヒマ人)

何たって、普段200円の入場料がタダ、

しかも子どもには風船がもらえるってんで

(それが左様に特筆すべきメリットか?)

子どもの頃から横浜によく連れてこられた私、

エキゾチックな中華街やオシャレな元町と並んで、

海に向かって開かれた山下公園は大好きでした。

そのシンボルである氷川丸、

大人になって、ヨットに乗るようになったり、

船好きになった私の、最初のルーツかもしれません。

それが、10年くらい前からでしょうか、

みなとみらいの隆盛とは裏腹に、

中華街などの山下地区は衰退していきました。

折悪く、中華街では老舗が火事で焼失し、

氷川丸とそれを見下ろすマリンタワーは、

存亡の危機にまで、なりました。

そして数年後、焼けた老舗も復活し、

中華街や元町も存在感を取り戻しました。

氷川丸もこうして、80歳を迎えられました。

その事が、何だか自分のことのように嬉しいです。

戦前からシアトルと横浜を結びました。

戦中は病院船として活躍、機雷を受けても沈まず

傷病兵も、そして船自身も生き残りました。

戦後は引き上げ船として、外地に住む多くの人を

再び日本の地に戻してくれました。

帰国を絶望した人々の目に、船はどう映ったでしょう。

そして、再びシアトルへ。

そんな、昭和の歴史を載せた船内を、

私の撮影で恐縮ですが、ご案内します。

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階段ホール、何だかタイタニックを思い出しませんか?

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チャップリンも泊まった特一等船室

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でも、私はこちらの三等の方が好き。

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ブリッジ、台が動いて常に平衡を保てる羅針盤、

左舷を差した針はもう、動くことはありません。

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艦橋からは横浜港が一望できます。

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機関室、壁の赤い部分から下が喫水線です。

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スクリューの回転方向を決めるレバーは

ASTERN(後進)」で固定されています。

これを固定した船乗りは、どんな気持ちだったでしょう。

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よっ、相棒!

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船旅の疲れを安堵に換えてくれた横浜三塔。

右から1/3の緑の丸い屋根がQueen

左から1/4の茶色の三角屋根がKing

Jackは残念ながら見えません。

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80歳おめでとう!

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人は手段か目的か

何年か前、女性を「産む機械」と発言し

非難轟々を受けた大臣がいましたね。

あれには私も憤りました。

でも、あの発言の何が怒りの種なのか、

私を含め、ちゃんと考えたのでしょうか。

そもそも、問題視されていたのは少子化問題。

子どもを産む機能を備えているのは、女性だけだから、

女性にこれを期待するのは、間違っていません。

ましてや政治って仕事は、全体を考えるものだから、

「産めない女性」「産まない事を選んだ女性」がいても、

この視点はおかしくないと思います

(いくら産まない女性が増えても、

男性には産めないんだから)

「機械」って言葉だって、男性は何十年も前から

「歯車」って言われてきたし、今も男性に

「良き歯車(つまり高収入)」を求める女性は多いですよね。

「女性を家庭に縛りつける発想」と言う人もいますが、

私たちは生物としての原理にそもそも縛られている、

と言う事を忘れてはいけないと思います。

だからと言って、この発言を弁護する気にもなれない、

その理由、私の場合は「本末転倒」だからです。

政治なんて結局は、私たちのためのもの。

だから、政治家の提案は、私たちのためにどうするか、

であるべきなのが、その負担を私たちに押しつけている、

その責任転嫁にあります。

私たちは、お国のために存在する訳ではありません、

一人ひとりが、独立した意義を持っていると思います。

政治が私たちの手段であり、私たちは政治の目的なのです。

と、考えた時に、自分に対して一つの疑問が浮かびました。

では、私たちは完全に独立した意義があるのだろうか。

私たちの人生の目的は、何なのでしょうか。

何でも自分で決める、それもまた、違和感があります。

例えば、たばこやお酒の中毒の人、彼らが言う

「俺の人生の長さは俺が決める」は、素直に頷けますか?

もっと身近な例で言えば、子どもです。

彼らを最大限尊重することは、

躾をしないのとイコールではありません。

私たちは、自分の「生」を完全に支配してはいけない、

或いは、したくてもできない、と思います。

さて、正しいのはどちらでしょう?

思うに、「どちらも大切」「バランスが大切」

と言うことではないでしょうか。

「私は私」で良いと思います。

ただ、そこには「周りがあるから私がある」こと、

自分もその「周り」の一人として、

ちょっとはそのお役に立てるように頑張ること

(ぶっちゃけた表現で、「おたがいさま」って事ですね)

そんな、謙虚で緩やかな個人主義者でいたいものです。

え?少子化問題に対してはどうなのかって?

バランスが大切ですからね、産む人も産まない人もいていい。

どちらを採っても、周りに支えてもらっているってこと、

自分も周りに、ちょっとはお役に立とうとすること、

それを忘れたくないし、

どちらを採っても生き易い世の中であってほしいですね。

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スローライフな音楽Ⅹ~荒城の月

作曲 瀧廉太郎 作詞 土井晩翠

春高楼の花の宴 巡る盃影さして

千代の松が枝分け出でし 昔の光今いずこ

秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁の数見せて

植うる剣に照り沿いし 昔の光今いずこ

今荒城の夜半の月 変わらぬ光 誰がためぞ

垣に残るはただ葛 松に歌うはただ嵐

天上影は変わらねど 栄枯は移る世の姿

映さんとてか今もなお ああ荒城の夜半の月

前々回、「花」について書いたばかりなのに

(しかも、その歌については4回目…)

更にさらに、「花」と同じ瀧廉太郎作曲の歌です。

それを敢えて取り上げたのは、別にマイブームじゃなく

(元々、瀧廉太郎が大好きなのですが)

一応それなりに、思うところがあったからです。

私は、全ての歌の中で「花」が一番好きですが、

「荒城の月」に対する日本人の思いが、

この姉妹作を凌駕しているのは、疑いないでしょう。

そしてそれは、日本人特有の思いなのか、

外国の著名な合唱団やソリストがこれを手がけても、

今一つ、ピンと来ない気がします。

何ていうか、歌に「魂」が感じられないと言うか…。

面白いですよね、「花」ならそんな違和感はありません。

この歌の描かれるそんな「日本の心」

それが、侘び寂びなのでしょうか。

松林の中、佇む朽ちた城閣、

蔦の這う庭、苔むした石畳、乾いた池、

そこに差すのは、皮肉にも大きく明るい満月。

きっと、在りし日の春爛漫の夜、

大名以下、大勢の武士や重臣が、

桜の下で酒宴を繰り広げたのでしょうね。

池の水面に映った大きな月は、

錦鯉の立てる波に揺れています。

そんな昔の光、今いずこ。

月だけが変わらず、朽ちた城に差している。

この歌で描く、私のイメージです。

桜の花の命は短いからでしょうか。

その妖しくも美しい姿は、この歌の情景そのものです。

そして、これは過去の歌でしょうか、

いえ、私は先日、この光景を目にしました。

先週の土曜日、東京・横浜では霙が落ちましたね。

つい1週間前、花の宴が繰り広げられた公園にも

人の姿はなく、ただただ降りしきる霙まじり、

桜の枝を飾るのは、花ではなく、雪でした。

まさに、昔の光今いずこ、と言った趣き。

この寒さ、素人ながら思うのは、やはり異常気象です。

人の営みだけが原因とは言い切れませんが、

日増しに速くなる人の営み、加熱する乱痴気、

やはり、それが関係していないとは思えません。

皮肉にも、桜の下で毎年繰り広げられる「お花見」は、

その象徴のようにも、思えます。

「昔の光今いずこ」この歌は、

驕れる人の営みを戒めているように、聴こえませんか。

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かわいい哲学者たち

哲学が好き、それが私の底流にあって、

実は私の生活は全て、それの実践(のつもり)です。

それは、職である保育園の経理にしても、

このブログのテーマであるスローライフにしても。

まぁそのつながりは、また今度書くとして…。

でも、哲学者って、どんなイメージですか?

多分、頭が禿げててヒゲもじゃで、って言う

ソクラテスみたいなイメージか、

プラス牛乳瓶の底メガネをかけた変人、

どっちにしても、およそ凡人とはかけ離れた

風変わりなおじいさんのイメージがありませんか?

少なくとも、私にはそんなイメージがあります。

ではこの、「哲学」って何でしょう?

エラい人の定義づけは知りませんが、

私は、「確かな知」の模索だと思います。

絶対に変わらない知、真理とも言っていいと思います。

私たちは、いろんなことを知っています。

でも、全てを知っているとは言えないし、

もちろん、真理を知っているとも言えません。

では、どうしたらいいか?と考えた時、

「知っていること」はそれ以上知ることができないけど

「知らないこと」を「知る」ことで自分はもっと賢くなれる、

ってことに気付いた人が、

「知っていること」ではなく「自分の知らないこと」

に向き合う試み、それが哲学だと思います。

例えば、人間と動物は同じ権利を持つのか?

殺人は常に悪なのか?

人間の心と身体は、一緒なのか別の存在なのか?

答えは、誰にもわかりません。

でも、

1つ目の問題は、動植物の生存権で、

2つ目の問題は安楽死・尊厳死で、

3つ目の問題は脳死問題で問われるように、

現代人の胸元にこれらの哲学的課題は突き付けられています

(3つとも、命に関わる問題ですが、

生物学や医学だけでは、絶対に答えは出せないのです)。

自分の「知らないこと」に向き合う哲学は、

決して「難しい言葉のあそび」ではないのです。

さて、哲学って↑こんなもの、って思った時、

私たちの周りにいる、哲学的な人は誰でしょう?

それは、間違くなく「子どもたち」です。

気難しいおじいさんではなく、

私たちの前でかわいい笑顔を見せてくれる、子どもたち。

彼らは、自分が、あまり知らないと言うことを知っています。

だから、もっともっと知ろうとするし、

それを楽しんでもいます。

「何で?」とか「これは何?」と疑問を連発します。

哲学って、別におじいさんの学問じゃないんです

(いや、おじいさんがやったっていいんだけど)

本当は、とっても謙虚で身近で楽しいもの、

そんな風に、思っていただけると嬉しいですね。

さて、ワタクシはどんなに哲学が好きでも、

もはや誰も「かわいい哲学者」とは言ってくれません

その代わり、家事育児、子どもにはない生活での実践がある、

せめて「ヌカ味噌くさい哲学者」と呼ばれたら光栄ですね。

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スローライフな音楽Ⅸ~桜の花を愛でるなら

同じタイトルの記事を去年も書きました。

同じ曲をテーマに書きました。

この曲について書くのは、もう4回目です。

今年も、同じことを繰り返すのは…、

単に私が、この歌を好きだから、ってだけ。

お付き合いください。

瀧廉太郎作曲 武島羽衣作詞 「花」

春のうららの隅田川、のぼりくだりの 船人が

櫂のしづくも花と散る 眺めを何にたとふべき

見ずやあけぼの露浴びて われにもの言ふ桜木を

見ずや夕ぐれ手をのべて われさしまねく青柳を

錦おりなす長堤にくるればのぼるおぼろ月

げに一刻も千金のながめを何にたとふべき

今年は、東京と横浜と、

両方の花の盛りを楽しんできました。

東京は、実家にほど近い王子の飛鳥山公園と、

そこから都電で25分の荒川自然公園。

電車好きな子もんすてら。と都電に乗りに行ったら、

素敵な公園を見つけてしまいました。

荒川自然公園はお花見禁止なので、ゆったり桜を楽しめます。

下水処理場の上を利した広い敷地に、

池があったり、交通公園があったり。

もんすてら。は足漕ぎの豆自動車に乗ってあそびました。

すぐ横を京成のスカイライナーが通るので、

とてもご満悦の様子

「成田エクスプレスより速いんだよ」

はい、大人から見たら、速いより安いことが魅力です

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飛鳥山公園

私は幼い頃、このぞうさんを見ては泣いてました

下は、初めて訪れた、荒川自然公園です。

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帰り道は、隅田川の上流、新河岸川沿いの土手、

さすがに、この景色がこの歌に一番合う気がします。

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翌日、横浜の本牧山頂公園へ。

マイカル本牧のすぐ裏、標高45mほどの小高い山、

こちらはその稜線を利した敷地なので形が複雑。

漢字の「山」の字に似た地形は、歩いていても不思議でした。

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ちょっと、赤毛のアンが散歩しそうな小径

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本牧の谷の反対側は、先日行った三渓園。

付近は、せせらぎ公園があったり、市民公園や新本牧公園、

海づり公園やシンボルタワーがあったり。

ちょっと足を延ばせば山下公園や根岸森林公園も近い、

子連れには最高の「公園天国」です。

東京出身として、横浜市民として、

「東京や横浜の魅力は何ですか?」って聞かれたら、

私は迷わず「素敵な公園がたくさんあるところ」

って、答えたいですね。

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酔ってませんか?

横浜ではもう、終わり間近ですが、

日本全国でお花見のシーズンですね。

私も日本人。桜は大好きですし、

似たようなものでも、ピクニックは大好きですが、

私はどうも、お花見の光景が好きじゃありません。

あの、花の盛りの下で、ほとんどそれを愛でずに

繰り広げられる乱痴気騒ぎに感じる違和感、

同じ思いの方も、多いんじゃないかと思います。

似たような違和感を、オリンピックでも感じます。

バンクーバーの熱狂から、2カ月経ちました。

今回に限らず、五輪の際によく使われる言葉、

「感動しました」に、やはり違和感を覚えます。

あの時、「感動」して、今、自分に何か、

それ以前とは違う劇的な変化がありましたか?

例えば、同じあるいは違う種目に挑戦している、とか

アスリートの奮闘を励みに、自分は自分のフィールド

(仕事なり勉強なり家事・育児なり)を頑張る、とか

スポーツや人間、国際社会に対して、観方が変わった、とか。

「感動」とは、そういうものだと思います。

何らかの形で、その人を衝き動かすもの。

もし、それがないなら、それは「陶酔」でしかありません。

乱痴気騒ぎ、醒めたら何も残らない「陶酔」。

さしずめ、テレビを見て泣くのは、酒席の泣き上戸でしょう。

一流のアスリートの演技・競技には、

確かに、観た人を感動させる力があると思います。

ただそれは、登り詰めたアスリートがそうであるように

日々の継続の上にあるものではないでしょうか。

それまで知りも見向きもしなかった競技で、

ちょっとテレビや雑誌で観ただけで得られる、

そんなインスタントなものが「感動」でしょうか。

百歩譲って、それだけ立派な演技・競技だったとしたら、

それはやっぱり、観た人を衝き動かすはず。

前にも後にもそれがないなら、やはりそれは「陶酔」。

「陶酔」だって、悪いことではありません。

人を酔わせられる演技は、やはり素人ではできませんし。

ただ、「自分は酔ってない」と

言い張る酔っ払いが一番タチが悪いように、

それを陶酔と自覚せず、「感動」と表現するのは、

決して趣味のいい酔い方とは思えません。

スポーツでも、花でもお酒でも、

私たち日本人もそろそろ、乱痴気騒ぎではない、

「たしなみ」を覚えたいものです。

陶酔は醒めたら何も残りませんが、

花やスポーツが与えてくれる豊かな「何か」は

「心の財産」としてちゃんと残るはずですから。

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この時期、保育園は泣き泣き大合唱

夏の森では蝉が、秋の夜長はスズムシが

日本の四季は虫の音色が彩りを加えてくれますね。

さしずめ、この時期の保育園は「泣き虫」

新入園児を中心とするそれはもう、蝉も逃げます。

まだ関係性の築けてない新しい子の対応に追われる保育士、

どうしたって前からいる子に注ぐ目は奪われがち。

こんな時、起きるんですね…、トラブル。

誰が誰をぶっただの、何を取っただの。

そうして起こる、保育室全体での泣き泣き混声大合唱。

特に、物心つき初め&ママ恋しさの塊の

1歳児さんクラスは大変な騒ぎ。

死に物狂いでママにしがみつくのを振り払って

後ろを振り返らず小走りに出勤していくママさんたち、

目に入れても痛くない我が子と離れる寂しさと罪悪感で、

心の中では、子ども以上に泣きたいですよね。

私もそうでした。

子もんすてら。が1歳の時、

無認可のふりーじあ保育園に預けた時は、

「こんなにまでして働く意味があるの?」って

何度も自分に問いました。

ほんの片言以外は泣くことでしか表現できない子、

その子が、本気で泣いて訴えるんです。

ものすごい力で、保育士の抱っこから逃れて、

私の方に戻ろうとするんです。

こんな時、ふりーじあ保育園の園長先生が

おっしゃって下さいました。

「大丈夫、子どもはみんなこう。

親の前では泣いてても、すぐに元気に遊びます。

それに、こうして泣いて、それで成長していくんです」

その言葉を何度も頭で繰り返しながら、

自分の仕事に専念しました。

そして夕方、本気で走って迎えに行きました。

私も、保育園で働く身として、

ふりーじあ保育園の園長先生の言葉

全くの本当だと実感する毎日です。

朝、泣き泣きでママを困らせた子も

30分もすればあそびに熱中。

もちろん、1日に何回かは泣きますが、

健康な子なら、それはあたりまえのこと。

そして、遅い子でも数カ月も経てば、

ニコニコ顔で登園するようになります。

いえ、ママのお迎えを嫌がるくらい、

みんなと過ごす保育園が大好きな子も。

子どもって、大人が思うよりずっと

適応能力もあるし、楽しむことが上手なんです。

だから、ママさんたち、

安心してお仕事に向かってほしいな。

蝉も鳴いてるばかりじゃありません。

すぐに、大空を飛び回るじゃないですか。

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私が尊敬する人物

歴史上の人物で、一番好きな人は誰ですか?

私は、好き、と言うのとはちょっと違うけど、

ガウタマ:シッダルタ、ブッダを尊敬しています。

そして今日、4月8日はブッダの誕生日なんです。

ブッダというと、仏教の開祖ですよね。

でも、私はこのブログでは、特定の宗教や政党を

良いとか悪いとか、書くつもりはありません。

ただ、ひとりの人間、ブッダを尊敬しているんです。

(私の解釈も交えますが)

ブッダの世界観は、全てを肯定するもの。

この世に価値のない物事は存在しない、

そしてそれらが、自然の摂理でつながっている。

私たちも、その繋がりの中で生かせて頂いている。

その世界に対して、私たちがなすべきは、

「生きてれば厭な事とかいっぱいあるけど、それもみんな、

意味があって存在してるんだから、受け入れましょうよ。

その時に感じる苦痛は、私たちの内にある煩悩のため。

煩悩が、厭な外的原因(繰り返しますが、価値あるもの)

レシーバー(受信機)になっちゃってるんだから、

自分に向き合おうよ、その煩悩を何とかしようよ」

って言っていいと思います。

どう思います?

私は、今の世の中って、歪みだらけだと思うんですが、

その答えを、暗に言ってくれている気がします。

厭なことやニーズがあれば、周りを変えるのではなく、

自分が動く、自分に向き合う、自分を変える。

実践に例えるなら、

お腹がすいたら、ご飯を作ればいい。

どこかに行きたければ、歩けばいい。

危険な動物や虫がいたら、刺激しないよう気をつければいい。

欲しい物があっても、本当に必要か自分に問えばいい。

人に優しくしてほしかったら、自分が優しくすればいい。

それを、外食や冷凍食品で済ませるから

食文化が壊れたり、現代病になったり、

不必要に車に乗るから、空気が汚れる、

動物や虫を殺めるから、生態系のバランスは崩れる、

流行になった物をすぐ買うから、ゴミが大量に出る。

自分の主張ばかりするから、人と人とがギスギスする。

自分のニーズをかなえるのに

「楽したい」「手に入れたい」「見栄を張りたい」

という煩悩に従い、自分は動かず周りを動かした

自分と向き合うのではなく、周りを変えてきた、

その歪みが、ここにあります。

「もったいない」って言葉も仏教用語

エコとの関わりの中で存在感を増してきつつありますが、

私たち人間もその心も、自然の存在だし、

みんな繋がっている、その中で生かせて頂いていること、

忘れたくないし、忘れてほしくない。

エコのみならず、仕事や家事、子育て、いろんな局面で

彼の教えは、あまりにも尊いと考えます。

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独我論

私は哲学が好きです。

理由は、私たちのアタマの中での「知る」って

営みに対して、最も誠実な態度の結晶だと思うから。

って言うと分かりにくいけど、

要はいろんなものの見方を教えてくれるから、

それが面白いからって言えます。

新年度明け最初の投稿は、

この「哲学」から一つ。

いえ、ちょっとした頭の体操です。

独我論という世界観があります。

私たちが、見たり聞いたりする人や物、

全て、その人の精神がつくりだしたものに過ぎない、

と言う観方、と言っていいと思います。

人生全てが、壮大な夢か、

極めて精密なバーチャルリアリティって例えたら、

イメージつきやすいでしょうか。

つまり、あなたの目の前で、

怒ったり笑ったりする家族や友人全て、

「本当はそんなもの、いない」って言うことです。

私個人は、決してこの世界観ではありませんし、

大切な人や物が実在しないなんて、

考えたくもありませんが、よくよく考えると、

この観方を否定しきれる材料は持っていないんです。

いえ、誰も持っていないでしょう。

最近では、「黒い雲なんてない」って書きましたが、

私たちが「見える」ものと、「実際のもの」は

必ずしもイコールではありません。私たちの感覚は、

どこまで騙されているか、分からないのです。

ですが、私がこの世界観を人に話した時、

返ってくるリアクションは、たいてい

SFの見過ぎでしょ?」「ちょっと病的」

私の世界観ではない、と言うことを伝えた後なので

私に対する言葉ではありませんが。

それでも私は、ちょっと残念でした。

私たちは、「知る」ことにもっと貪欲になっていい、

と思います。

自分と違う観方に触れた時、

同意するか否かはともかく、

「へ~」って思える好奇心、

それが、哲学の原動力なのですが…。

あれ?子どもってみんな、哲学者ですね。

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