横浜

楽しいたのしい(?)運動会

もうすぐ10月、私のぱいなぷる保育園も

子もんすてら。のここなつ保育園も運動会準備で大忙し。

子どもの頃、運動会が大嫌いでした。

陸の上で身体を動かすことは大の苦手でした。

今から思えば、単に運動神経の問題ではなく、

集団での活動が苦手だったんだと思います

(それは、大人になった今も変わりません)

水泳大会やマラソン大会では、それなりに活躍しました。

勉強では、ほとんど誰にも負けませんでした。

でも、運動会では、「みんなの足を引っ張るヤツ」でした。

幼いうちは、鋭い言葉で責められ、

次第にそれは、言葉ではない「空気」に変わりました。

それらは、高校くらい、あまり勝敗を意識しない運動会でも、

独立燃焼的に、私を取り囲む自己嫌悪となって残りました。

子どもながらに、運動も勉強も、

それぞれみんな得意不得意がある、と理解する一方で、

勉強が不得意でも誰にも責められない、

運動会でのマイナスを勉強で取り返しても

誰も認めてなんかくれない、と言うアンシンメトリーに

不条理を感じていました。

「楽しい運動会なんて嘘っぱち」「楽しさを押しつけないで」

が正直な気持ちでした。

これは、「だから○○であるべきだ」と話ではありません。

恨みごと、愚痴です。えぇ、情けないです

しかし、今もこうして、情けない思いでポツネンとしている子、

絶対にいると思います。

運動会が悪いとは思いません。勝ち負けもあっていいでしょう。

そんな中で、誰もが輝く瞬間のある学校生活で

あってほしいものです(言うは易し。

先生方には、とっても難しい注文でしょうね^o^;)。

もんすてら。運動会が楽しみで仕方がない様子。

勝ち負けなどあまり意識しない保育園の運動会だからか、

(私は、幼稚園時代に運動会が嫌だったか、覚えていませんが)

私よりは遥かに運動神経がいいから苦にならないのか。

小学校に上がってからも、運動会を楽しんでほしいな。

この週末、神津島に旅行に行く予定でしたが、

台風16号→船が欠航→帰れなくなる→仕事に支障

のおそれがあったので、中止にしました。

その代わり、天気が良かったので

もんすてら。と横浜港シンボルタワーにあそびに行きました。

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景色はこんな感じ

さて、富士山はどこでしょう?(ヒント:16時頃の撮影です)

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右から来たのは、東京に向かって千葉沖を航行中のさるびあ丸、

本当は今夜、乗るはずだったんだけどね。

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運動会の話の客観的な私の考え

それが人生だ、悟りなさい、ってところでしょうか

「みんな違ってみんないい」と言うのは

みんながそれぞれに脚光を浴びると言う意味ではなく

(それが理想ですが)浴びる人も浴びない人もいていい、

と解する方が現実的だと思います。

みんなが長島さんにはなれないけど、

野村さんが長島さんに劣る訳じゃない、

そう伝えたいですね。

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世界遺産級のLaniKaiⅥ<番外編>

清水の舞台から飛ぶ思いで小笠原ツアーに行ってましたが、

私たちの夏好きと英才教育はそれに留まりません。

今年は、私も生まれて初めて、と言うくらいに

いろんなところに旅行に行きました。

まずは7月、おなじみの八丈島、 

熱帯植物園では、中型犬くらいの大きさの鹿、

キョンに島の木、ロベの葉をあげたり(いいのか?)

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島のカフェではこんな大きなかき氷、

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そして式根島に行きました。

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八丈のような大きな魚は、あまりいません。

と言うか、海の中はウチの近所とあまり変わらない…。

でも、このベラの大群、すごくないですか?

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地を鉈で割ったような谷を降りていくと

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こんな赤い水たまり…

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実はこれが、式根島名物地鉈温泉。

流出する源泉は激しく熱い…。

海水と中和された潮だまりが「適温」。

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潮の干満と波で、正直落ち着いて入れない…

(もう、熱いんだか寒いんだか)。

島の人なら、上手い入り方を心得ているのでしょうか。

玄人好みな感じがします。

もちろん、こんな癒される温泉もあります。

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帰りは、生まれて初めて乗るジェット船、

速いけど、正直、面白くはありません。

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海を愛するなら、山も愛さなければ、で尾瀬にも行きました。

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夕暮れ、青の時間と木道

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朝日に輝く尾瀬の主峰、燧ケ岳。

地が揺れ人の世が揺れても、

東日本随一の高みは動じません。

遠くばかりではありません。

地元の海で、釣りデビューもしました。

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夕飯のおかず、ちょっと助かっています。

私たちの夏、まだまだ続きます。

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記憶は活かしてこそ

学生の頃、試験で間違えた問題、

「今度同じ問題が出たら…」って思ったこと、

誰でもあると思います。

でも、同じ問題が出ることはほとんどない。

多少なりともパターンが違ったりして、

「それだけ」がわかっても改善にはなりません。

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今朝、携帯電話で撮った写真です。

満員の京浜急行の電車が、黄金町駅を通過するところ。

横浜・東京方面へ大勢の通勤客を運ぶ、いつもの光景。

66年前の一昨日、ここで起きたことを

意識に留めている人は、そう多くはないでしょう。

昭和20529日、横浜大空襲。

その日の朝930分頃、

横浜の空に連合国軍の大編隊が迫り、

震災から立ち直ったばかりの町を焼き尽くしました。

空襲警報で、最寄りの黄金町駅に停車した京浜電気鉄道、

乗客たちの多くは、高架下に避難したそうです。

折しもその時、その頭上で焼夷弾が炸裂し、

業火の滝が人々を襲いました。

東京の言問橋と並び、悲しい記憶がそこに焼きつきました。

私は以前、横浜大空襲について書いた時

平和を守るには「知ること」が大切ではないか、

と書きました。

過去の記憶は、多くの教えを授けてくれるでしょう。

さて、冒頭にも書きましたが、

この記憶を想起した人、多くはいなかったように思います。

新聞やニュースの話題は、ほとんどが震災関連、

それ以外の報道は、ほとんどありません。

視聴者・読者の関心が薄いせいから報道しないのか、

報道しないから視聴者・読者の関心が薄いのか。

その震災関連のニュースでは、

「想定内・想定外」と言う言葉がしばしば聞かれます。

でも、災害や事件は、どこまで想定できるのでしょう。

起きる事象が一つなら、ある程度は想定できます。

が、同時に複合的に起きることは、想定しきれません。

地震と台風や火山の噴火が同時に起きたら、

国際緊張が高まっていて、海外からの支援がなかったら、

テロやストライキ、不祥事などの人的条件が重なったら…。

一つの災害時に、他の事件が重ならない保証は、ありません。

「備えあれば憂いなし」と言いますが、

これはあくまでも心がけの話。

どんな防潮堤を築こうが、最強の軍隊を並べようが、

実際は、全てに応じられる「備え」なんて不可能です。

では、私たちはこれらに、無力なのでしょうか。

最終的に、防ぎえない事態はあると思います。

でも、ベストは尽くすことができる。

その道筋として、過去の教訓を最大限に活かしたい。

今は、どうでしょう?

地震の後は地震の話、飛行機が落ちれば飛行機の話題ばかり。

横浜大空襲の悲劇と今の原発の事態は、

「神話の崩壊」と言う点でとても似ています。

また、先日「三宅島を忘れないで」と書きましたが、

今回の避難・復興に、三宅島の経験を活かさないのは

あまりにもったいないと思います。

過去の経験を活かしきっているとはとても言えないし、

今の経験が将来、活かしきれるとも思えません。

このままでは、今後起きる大災害も全て「想定外」でしょう。

直近の一つの話題に終始しないで、

いろいろな過去の経験から柔軟に学ぶ。

これが、「想定外」に対する

「備え」の第一歩ではないでしょうか。

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昨日は誕生日でした

前回の記事で扱った「荒城の月」、

テーマを乱暴にまとめてしまえば、

「侘び寂び」または「盛者必衰」でしょうか。

日本人以外には、理解しづらいテーマ、

だからこそ、日本人のアイデンティティに

しっかり根ざしていると思います。

でも、私もこれらは大好きですが、

もっと好きなものがあります。

それは、言葉で表せば「どっこい生きてる」

逆境でも、目立たなくても、

めげずに生きてる底力の強さが大好きです。

これ、「盛者必衰」と一見逆のようですが、

「盛者は衰えるけど、雑草は変わらず伸びるよ」

と言う、表裏一体のテーマと言えなくもありません。

「荒城の月」の歌詞にも描かれる、

松や葛は、どっこい生きてますからね。

さて、私が大好きな船、氷川丸も、

「どっこい生き延びた」船、でしょう。

日本横浜と、米国シアトルを結ぶべく造船されながら、

戦時中は病院船に改造され、

幾度の魚雷を受けても沈まなかった。

戦後は引揚船として活躍し、幾多の命を救いました。

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そして平成、みなとみらい地区の隆盛の陰で、

廃船の一歩手前までいきました。

それでも生き残り、

昨年425日には、80歳の誕生日を迎えました。

横浜と言う、氷川丸の2倍に満たない浅い歴史、

その出鼻を挫いた関東大震災、

その瓦礫でつくった山下公園が母港、

何だか、震災から立ち直ろうとする今と

氷川丸の人生(船生?)にはつながりを感じます。

「どっこい生きてる」どころか、

ずいぶん派手な存在になっちゃいましたが、

必衰の「驕れる平家」ではなく「大器晩成」。

押しも押されぬ横浜のシンボルに、

心から「81歳おめでとう」と言いたい気持ちです。

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もう、大海原は走らないけど、

過去を背負うからこそ、

未来に向いたスクリューが止まることはない、

そんな気がします。

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荒城の月

作曲 瀧廉太郎 作詞 土井晩翠

春高楼の花の宴 巡る盃影さして

千代の松が枝分け出でし 昔の光今いずこ

秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁の数見せて

植うる剣に照り沿いし 昔の光今いずこ

今荒城の夜半の月 変わらぬ光 誰がためぞ

垣に残るはただ葛 松に歌うはただ嵐

天上影は変わらねど 栄枯は移る世の姿

映さんとてか今もなお ああ荒城の夜半の月

昨年の日、この歌についての記事を書きました。

お花見に代表される現代人の乱痴気と、

その後、満開の枝が装った雪化粧、

そこに見られる人の傲慢さと異常気象に、

この歌の戒めを感じた思いがしたものです。

そして今の日本を取り巻く状況、

今一度、自分の記事を読み返し、

手前味噌ながら、背筋が寒くなりました。

さて、薄気味悪い話はおいといて…

実は私、この歌の作曲者、瀧廉太郎のファンなんです。

そこで、今日はこの歌について少々。

この歌のモデルとなったお城はどこか、

諸説ありますが、以下の2説が特に有力だそうです。

ひとつは、瀧廉太郎の故郷、大分の竹田城と言う説、

それから、土井晩翠の故郷、仙台の青葉城と言う説。

歌詞にも曲名にも、固有名詞は書かれていないので

私は「両方でいいじゃん」と思いますが、

強いて言うなら、私は青葉城だと思います。

何故なら、この歌は詩が先につくられたから。

その詩を載せるように、後から曲がつくられたんです。

ならば、土井晩翠のイメージをくみ取る方が、

自然な気がします。

(あくまでも、私がそう感じているだけです)

なお、「千代」は「せんだい」にかかっているそうです。

ところで、桜の季節、私の住む横浜や東京は、

あっという間に過ぎ去ってしまいました。

今、桜前線はそれこそ青葉城のあたりでしょうね。

幸か不幸か、かの地にこの歌が似合う時は

今をおいてないのではないか、と思います。

いえ、照明の消えた首都圏だって同じです。

ですが、花の命は短いけれど、

光豊かな歳も乏しい歳も咲き誇る桜、

人の世の儚さに比べれば、何とも頼もしいもの。

被災地も、日本全体も、一度は傷ついたけど、

もう一度花を咲かせてくれたら、と思います。

話は飛びますが、

先日、山下公園でこんな写真を撮りました。

マリンタワーにかかる飛行機雲。

タワーを中心に、「Y」を描いています

(よく見れば「X」ですが…)。

一度は取り壊しの危機に遭いましたが、

やっぱり「YOKOHAMA」のシンボルですからね。

今は、照明を発光ダイオードにし、時間を短縮して、

消費電力を99%カットしているとか。

入場料の半分は、義援金に寄附されるそうです。

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地震雲?

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昨夜の地震、どうでしたか?

私はもう、感覚がおかしくなっているのか

お風呂に入っていたんだけど、

「あ、もうこれくらいならどうでもいいや」って

平然と入浴し続けました。

こう言う慣れが危険なのかもしれませんね。

ところで、先日の日曜日、

三浦に行った時、変な雲を見ました。

空に食パンが何枚も立てて置いてあるような。

しかも、この雲は三浦上空だけ、

隣の横須賀の上空にはなくて、

「ひょっとして地震雲?」なんて思ってしまいました。

関東大震災の震源地もこの辺だし。

まぁ、素人判断しても仕方ないので、あまり気にせず、

備えはしっかり、生活はいつも通り、

を心がけていますが。

それと、今回の地震以降、

私の住む横浜や金沢では、

津波を危惧する声がよく聞かれます。

が、ハッキリ言って、

私はあまり津波を恐れていません。

三陸とは地形が違いますからね。

ああ言う破壊的な津波の被害は

湾の奥にはまずないと思います。

その代わり、みんな忘れているなぁ、

と感じるのが、津波と似た高潮。

横浜・東京は、こっちの方を

気をつけた方がいいのではないでしょうか。

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横浜からメリークリスマス

最近、休日と言えばマリンパーク、

それはそれでとても楽しいけど、

私はやっぱり、クリスマスが一番素敵な町は

横浜だと思っています。

で、昨日23日、

久しぶりに子もんすてら。と行ってきました。

その時の写真を…。

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日中は根岸森林公園で思いっきり遊びました。

それから、ブラフの西洋館巡り。

今は、各館で「世界のクリスマス」をテーマに

いろんな展示をしていて、とてもステキ。

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まずは「エリスマン邸」、

「白い世界のクリスマス」、スイスです。

ハイジが大好きなもんすてら。も大喜び。

ユングフラウ鉄道の紹介には

アニメが使われていました。

あれはもう、日本だけのものではなく、

原作と並んでの世界的な名作ですから。

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続いてお隣、私が好きな「べーリックホール」、

スペイン風の建物ですが、テーマはフィンランド、

サンタクロースのお膝元ですね。

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「ブラフ18番館」は「水の帝国」

ベルギーのクリスマスです。

お菓子が可愛くて美味しそう。

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並ぶ「外交官の家」はドイツ、

「ロマンティックカントリークリスマス」

ちょっとあか抜けないけど、

暖かくて質実剛健な雰囲気が心地いいです。

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自然界からも負けてません。

満月がぽっこり、

ブラフの丘、ベイブリッジ、マリンタワーと共演です

(私のウデのせいで手ブレが残念)。

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そして最後に、私が大好きな氷川丸。

メリークリスマス

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意外な「震災の跡」

昨日は防災の日、

言わずと知れた、関東大震災のあった日です。

台風やその他の天災と違って、

いつ来るかわからないのが地震、怖いですね。

私たちにできるのは、訓練と備蓄くらい、

命を守るこれら、やっていますか?

私は、一応…(って声が小さくなる程度です)

このブログでは、過去に何回か、

先の大戦の事には触れました。

人の命を殺め、残った人にも不幸を落とす

戦争そのものから、何かを学びたいから。

でも、地震については書いたこと、ありません。

と言うことで今回は、意外な「震災の跡」

戦争と違って、自然災害である地震は

悲しむべき・学ぶべきではあっても、

憎むべきではないと思います。

そして、あまり知られていない関東大震災の跡が、

実は、横浜のとても身近なところにあって、

市民のみならず、日本中の人がここを訪れています。

それが、氷川丸のある山下公園です。

ご存知でしたか?

あの公園は、震災の瓦礫で埋め立ててつくったんです。

だいぶ昔の話ですが、

初夏の頃に子もんすてら。と訪れました。

お花がとってもきれいだったな。

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姉妹都市サンディエゴから送られた水の女神

マリンタワーを背負って、海と氷川丸を眺めます

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公園前の海岸通り、エキゾチックで日本じゃないみたい…

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公園の隣、「人形の家」には

青い目の人形「ポーリン」の像があります。

当時建設中の山下公園を眺めて横浜港に上陸したポーリン、

震災直後のハマッ子たちに、

どれだけの夢を与えてくれたでしょう。

でも、時代の波は彼女らの恩を仇で返してしまいました。

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港の見える丘公園から見ると、こんな感じ。

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ちょっと素敵な「震災の跡」

でも、帰ったらもう一度、家の備えも確認しましょうね

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再投稿~青い目の人形と横浜

青い眼をしたお人形は
アメリカ生まれのセルロイド 

日本の港へついたとき
いっぱいなみだをうかべてた
わたしは言葉がわからない
迷子になったらなんとしょう 

やさしい日本の嬢(じょう)ちゃんよ
なかよくあそんでやっとくれ
なかよくあそんでやっとくれ 

開港151周年に沸く横浜、

山下公園から元町までは、

ポーリン橋を渡っていくことができます。

頭上にマリンタワー、夜は眼下にガス灯、

眼前には山下公園と氷川丸、

港もフランス山も臨めるこの橋は、

間違いなく、横浜散策のメインコースでしょう。

この橋のたもと、横浜人形の家の前に、

橋の名の由来、青い目の人形「ポーリン」の

銅像があります。

人形の銅像なんて、如何にも奇妙ですが、

ふくよかな頬、愛らしい顔、

この人形の愛され、また歩んだ時を思えば、

それも不思議はありません。

世界から次第に硝煙立ち上る昭和2年、

その世界への玄関口、

震災から立ち直った横浜港に接岸した天洋丸。

アメリカの子どもたちからの友好のしるし、

13,000体の青い目の人形も

この時、日本の地を踏みました。

この中の1体、ポーリンは、

横浜港にほど近い、国民学校で

愛されることになりました。

人形たちが日本全国の

小学校・幼稚園・保育園に配られた14年後、

それはちょうど、

ポーリンが国民学校に来た年に入学した子が、

成人した年に当たりますが、

日本は人形たちの祖国に、

無謀かつ卑劣な攻撃を仕掛け、戦争が始まります。

「アメリカは敵だ」と、軍の司令により

青い目の人形は処分されていきます。

あるものは焼かれ、あるものは首を刎ねられ。

その行為を、軍人や教員ではなく、

子どもたちに強いたところもあるそうです。

ポーリンを含め、僅かな人形だけが、

子ども・教員・保母らの心により

隠され、無事でいることができました。

昭和20年、米軍は日本本土への空襲を強め、

全国の都市が焦土と廃墟に塗り変わっていきます。

東京大空襲の悲惨さは、ご存じと思います。

しかしこの後、東京を中心とする日本本土には、

それまでに比べると相対的な平穏が訪れます。

それは、沖縄での地上戦が激化し、

本土への攻撃が手薄になったから。

しかし、沖縄が陥落寸前となった5月後半、

再び本土への攻撃は激しさを増します。

そして65年前の今日、529日朝、

18年前に人形たちが船から足を降ろした横浜に、

東京大空襲の2倍近い600機以上の

B29と戦闘機が空襲を開始します。

横浜大空襲が東京大空襲と何より違うのは、

時間帯が昼間であること。

寝込みではないので、東京の時よりも

逃げ遅れは少なかったかもしれません。

実際、東京大空襲以上の爆弾が投下されても、

死者数は東京には及びません。

しかし、仕事や学校で、

家族が離れている時間帯でのこと、

行方不明者は東京大空襲を超えるという

一説もあるそうです。

そして大量の爆弾から逃げ惑う人々を、

戦闘機の機銃正射が襲います。

ポーリンのいる国民学校の付近は

特に標的にされました。

付近では、高架駅の下に人々が避難したところ

  駅の真上に焼夷弾が落ち、

灼熱の滝に500人が焼かれたそうです。

昼間空襲の犠牲者は、日本人だけではありません。

闇に隠れることのないB29、

70機あまりが、高射砲で撃墜されました。

撃墜された飛行機は、それ自体が凶器となって

人々の頭の上に落ちてきます。

遠く離れた敵国に落ちた米兵たちは

最期の瞬間に何を思ったでしょう。

「トルーマン大統領万歳!」と

叫ばなかったことは、確かだと思います。

日米の子の、人形に託した思いにも関わらず、

米国の軍人は、

その人形の上に爆弾を落としました。

日本人の大人は、その原因を作りました。

この悲惨極まる空襲の被災者数は31万人、

当時の横浜市民の1/3にあたるそうです。

しかし、この歴史的事実は、

東京大空襲の陰に隠れ、あまり知られていません。

過去に、明治、大正につくられた歌と、

その歌とともに人が歩んだ戦争の歴史について

記事にしました。

「ゆりかごのうた」では、

私は、二度と悲劇が起きないことを祈る

と書きました。

「花」では、現在の平和に感謝する、と。

「青い目の人形」は、私たちに、

過去の史実を知ることを

求めているように思えてなりません。

そうそう、ポーリンの本物は、今も無事、

西区の小学校でちゃんと保存されています。

写真も、ご覧になって下さい。

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氷川丸生誕80周年

の、記念イベントに、先日の日曜日、

行ってきました(ヒマ人)

何たって、普段200円の入場料がタダ、

しかも子どもには風船がもらえるってんで

(それが左様に特筆すべきメリットか?)

子どもの頃から横浜によく連れてこられた私、

エキゾチックな中華街やオシャレな元町と並んで、

海に向かって開かれた山下公園は大好きでした。

そのシンボルである氷川丸、

大人になって、ヨットに乗るようになったり、

船好きになった私の、最初のルーツかもしれません。

それが、10年くらい前からでしょうか、

みなとみらいの隆盛とは裏腹に、

中華街などの山下地区は衰退していきました。

折悪く、中華街では老舗が火事で焼失し、

氷川丸とそれを見下ろすマリンタワーは、

存亡の危機にまで、なりました。

そして数年後、焼けた老舗も復活し、

中華街や元町も存在感を取り戻しました。

氷川丸もこうして、80歳を迎えられました。

その事が、何だか自分のことのように嬉しいです。

戦前からシアトルと横浜を結びました。

戦中は病院船として活躍、機雷を受けても沈まず

傷病兵も、そして船自身も生き残りました。

戦後は引き上げ船として、外地に住む多くの人を

再び日本の地に戻してくれました。

帰国を絶望した人々の目に、船はどう映ったでしょう。

そして、再びシアトルへ。

そんな、昭和の歴史を載せた船内を、

私の撮影で恐縮ですが、ご案内します。

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階段ホール、何だかタイタニックを思い出しませんか?

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チャップリンも泊まった特一等船室

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でも、私はこちらの三等の方が好き。

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ブリッジ、台が動いて常に平衡を保てる羅針盤、

左舷を差した針はもう、動くことはありません。

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艦橋からは横浜港が一望できます。

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機関室、壁の赤い部分から下が喫水線です。

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スクリューの回転方向を決めるレバーは

ASTERN(後進)」で固定されています。

これを固定した船乗りは、どんな気持ちだったでしょう。

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よっ、相棒!

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船旅の疲れを安堵に換えてくれた横浜三塔。

右から1/3の緑の丸い屋根がQueen

左から1/4の茶色の三角屋根がKing

Jackは残念ながら見えません。

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80歳おめでとう!

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