スローライフに必要なもの

笑いは人の花

笑いは人の花

それが、誰かを癒したり、絆を深めたり、

みんなを愉快な気分にさせる

何て美しい花でしょう

何て偉大な花でしょう

緑は根があり茎があり葉があって

みんなで命を支えてる

そして季節がめぐり、蕾を開く

だからこそ、花は美しい

だからこそ、花は愛される

笑いは人の花

そればかりでは、人は枯れてしまうでしょう

この季節、一斉に咲き誇る花たちを見て

こんな詩を書いてみました。

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先日、春を満喫しようと、

我が子もんすてら。やお友達親子と、

東京の「旧古川庭園」を散歩しました。

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いかめしい洋館と西洋庭園が見下ろすのは

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心いやされる日本庭園

(遠くに洋館が見えます。一粒で二度美味しい庭です)

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お天気の教科書に出てきそうな、空から吊るされた雲

この後、ちょっとパラパラ降ってきました

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でも、すぐに明るい日差しが。

やっぱり青空が似合うお庭です。

 

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「絆」という言葉

あけましておめでとうございます。

って言葉が白々しいほど、

ずいぶん投稿をサボってましたね。

何しろ、公私ともに多忙だったもので…。

4年前の元旦にこのブログを開設したので、

最初の投稿は何となくアニヴァーサリー的な

気がするのですが(私が勝手に思っているだけね)

さて、何を書いたものか、と悩んだ末、

昨年の「今年の漢字:絆」について書くことにしました。

私はどうも、この「絆」という言葉を聞くと

興ざめというか、へそ曲がりな性分が呼び起されます。

似た反応を示すのが、オリンピックなどの時に

みんながこぞって使う「感動した」なんですが…。

これについて思うところを書かせていただきます。

絆って言葉、美しいですよね。

美しいっていうと、なくてもいいイメージですが、

人間は、社会的動物ですから、

絆なくして生存すら難しい。

美しいというより、不可欠なんですね

(そもそも人間は本来、自分に必要なものを

「美味しい」とか「美しい」と感じるように

できているのでしょうが)

一方で、人間が昔から築いてきた大切な価値観に、

「個人主義」があります。

よく「利己主義」と混同されますが、

「みんな違ってみんないい」の基本ですね。

これは「私は私」ですから、

「絆」とはどうも相性が悪い。

私たちは、「絆」と「個人」の背反する命題を

同時に突き付けられている訳で…。

この矛盾した命題から、私たちは逃げちゃいけない、

どっちかを疎かにしちゃ、いけないんですね。

その「葛藤」こそが何より大切だと思うんです。

ところが、「絆」って言葉が呪文のように叫ばれる時、

どうもこの「葛藤」を忘れている人が多い気がしてなりません。

「絆」の一方通行は、いつの間にか、

個人を押しつぶしてしまう事になりはしませんかね。

最後に、先ほど書いた「感動」と言う言葉。

今年も、大勢が口にするんでしょうね。

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「女」が流行になっていないか?

保育所保育指針では、

「固定的な男女役割分業意識を植え付けないよう配慮」

と書かれていて、私たちはそれに基づいて保育をしています。

ジェンダー教育の初歩の初歩でしょうか。

必要以上に性差を意識するのではなく、

個々人を大切にしようよ、と理解して良いでしょう。

「みんな違ってみんないい」の精神ですね。

でも、子どもは鋭い!今の世の中を見て、

これに逆行する情報をちゃんとキャッチしてきます。

と言うのも、テレビや雑誌、広告などに踊る「女」の多さ。

「女子会」だったり、「女には女の…」だったり。

そんなのも、たまには楽しいかもしれませんが、

ちょっと行きすぎじゃないでしょうか。

「女は女どうし」も楽しいけど、そのノリで

「男は男で」「20代だけで」「都民だけで」

そんなが横行したら違和感を覚えませんか?

対象を絞る、と言うことは

誰かを除外しているってこと、気づいていますか?

私は、人間の括りは「個人」と「みんな」があれば

基本、それでいいと思います

(もちろん、入浴や着替えや出産は別ね)

「女」を必要以上に意識すること、

これって、ジェンダーに反しないでしょうかね?

女性の社会的地位にも、プラスにはならないと思います。

「たまには女子会もいいけど、いつもはみんなで楽しくやろうよ」

「今日は一人で、自分と向き合ってみようよ」

これが、成熟した大人だと思うのですが…。

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これ、被災地ではありません。

私の実家のすぐ近く、都営住宅の建て替え工事です。

この住宅の中に、ぞうさんすべり台の公園があって

私は子もんすてら。よりも幼い頃(多分3才くらい)から

ここであそんでいました。

ぞうさんを家に見立てておままごとしたり…。

自分が親になってからも

何度か、もんすてら。と来た事もありますしね。

それも、壊されてしまうようで、何だか寂しいです。

いや、それだけなんですけどね…。

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この秋が教えてくれたこと

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たわわに実った稲穂

私と子もんすてら。が行くマリンパークで

体験栽培したもち米なんです。

9月に稲刈りをして、今月初旬に脱穀をしました。

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ドンモヤイダ?ダイヤモンドです。

近くの農家から借りた脱穀機らしいけど、すごい…。

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足踏み脱穀機は重労働、

そしてシュレッダー以上の危険な作業です。

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そして唐箕(とうみ)

手でファンを回すと藁が田圃に向かって飛んでいきます

今回、田植えから稲刈り、脱穀を体験しましたが、

稲を育て、お米をとるのってすごい重労働なんですね

(私たちは局面しかやってないけど、

日々稲のお世話をしたマリンパークの職員はもっと大変)

お米って一粒たりとも無駄にできない、って実感しました。

ところで私は小麦粉星人、お米より絶対小麦の方が食べてます

(パートナーのさるびあ。は完全なるお米星人)

加えて、この夏~秋は、

暑さのための食欲減退+傷みやすさのために、

炊いたご飯をあまり食べず、パンやパスタばかりでした

今までそれで平気だと思っていたのですが、

1週間くらいほとんどお米を口にしないでいたら…、

表現が難しいのですが、何だか身体の奥が渇くんです。

身体の芯に潤いがないと言うか。

気温以上に暑く感じる、疲れやすい…。

水を飲めば治るとかそういうのではありません

(身体の保水能力がないって言えばいいのかな)。

直感で、小麦ばかりだからってわかりました。

理屈をうまく言えないのですが、

日本人にお米って本当に大切ですね

台風15号、すごかったですね。

私はバイク通勤なので頑張って帰りました

通常の1.5倍の時間、75分かかりましたが、

途中バイクとは1台もすれ違わなかったな

この日、横浜の満潮と台風の時間は重なっていました。

「高潮が来るかもしれない」

小潮だったので、危険はないと判断し、

もんすてら。と自転車で砂浜へ。

いつもは100mくらいある砂浜が、

10mくらいになってました。写真で分かります?

日中の写真は普段の砂浜、

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昼間の写真の左端の小屋辺りから撮った夜景

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左に見える松林(黒い塊)以外は、全部海面!

左端に波に打たれる看板があるの、見えますね。

これ、昼間の写真だと真中にある白い点。

小潮だったからいいけど、

大潮だったら被害があったかもしれません。

一時、世間は「津波」について騒いだけど、私は

高潮も同じように気をつけないといけないと思います。

台風も地震も怖いけど、

台風があるから実りがある、

地震(火山)があるから温泉がある、

私たちの豊かさは、天地の揺らぎあってこそ、

災害には気をつけつつ、大いなる自然には感謝です。

岸壁では、波を利用してスズキを狙う釣り人がいました。

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血液型と科学

血液型の性格診断ってありますよね。

A型は決断力がないとか、

B型は社会性がないとか…。

あれ、「科学的な裏付けはない」そうです。

そう聞いて、血液型診断を迷信と思いますか?

実は私は、10%くらいは信じていますが

その理由を述べたいと思います。

人の心(性格:そんなものがあるのかどうか)の中枢は脳、

これはひとまず疑う必要はないでしょう。

そこを流れる大量の血液、

その型によって性格は多少変わる、

何となく、あってもおかしくはないでしょう

(もちろん、なくてもおかしくはありません)

実際、血液型と性格は、

何となく関連性があるようにも見えます

(但し、ほとんどが偶然や勝手な決めつけのレベル、

この「見える」はかなり眉ツバものです)

そして何より、私が強く言いたいのは

「科学が証明できないものが【ない】とは言えない」

と言うこと。

科学だって万能じゃありません

(だから日々、進歩しているんです)

「科学が【ある】と言わないもの=【ない】」

これこそ、かなりの迷信ではないでしょうか。

一歩進めて「科学が【ない】と言ったもの=【ない】」

それでもまだ、疑う余地はあります。

科学は日進月歩、過去の科学を時に否定して、進歩します。

現時点でのそれを絶対的に信じることは、

科学の発展を信じないことになってしまいます。

だから、現時点で裏付けはないとされる血液型診断も、

全くの迷信と安易には言えない、と思います

(10%信じるので、もちろん、90%は信じていません。

もっと大切なのは、人と接した時の印象でしょう)。

これ、神様やオバケについても同じです。

科学的には証明できません。

でも、信じても信じなくてもいいけど

「非科学的だからいない」と決めつけてしまうのは、

神を冒涜する行為か、科学を冒涜する行為か、

私は両方だと思います。

先日、我が子もんすてら。と実家の

片道5kmほどのサイクリングをしてきました。

行先は、足立区の北鹿浜公園(通称交通公園)

行程のほとんどは土手の上で気持ちがいいです。

川口側から見た岩淵水門

河川敷が水浸しなのは台風のせい

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遠くにはスカイツリーも見えます。

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公園では、こんな豆汽車に乗ったり、

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バッテリーカー(幼児は無料)も乗れます。

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かなり楽しめる公園です。

私たちは自転車だったからいいけど、

はひたすら歩きだからヘトヘト(動物虐待)

最後は、私の手から水を飲む顔をアップで

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自分の考えを整理

日々、いろんなことを考えて生活しています。

それは、仕事、育児、家事、人間関係、このブログ、

私のいろんなところの根本なのですが、

そもそも自分の基本的な考えって何だろう、

って自問自答したりします。

生活のいろんな局面に、って言うけど、

別に憲法みたいな条文がある訳じゃないし、

その時その時、自分の都合のいい方向にやってるだけ、

って可能性も否定できません。

で、整理してみました。

以前にも書きましたが、

私の最大のテーマは「つながり」

人は自然と繋がらずに生きていけません、

でも、一人じゃ自然の脅威に負けてしまうので、

人と人との繋がり、絆も同じくらい大切です。

親が祖先が命を繋いでくれたから自分がいるし、

子に子孫に命を繋がなかったら人類滅亡です。

命だけでなく、先人や隣人から受け継いだ

知や文化なども私たちの「生」に彩りを添えてくれます。

でも、「つながり」は全てではありません。

前世紀前半、「お国」と言う繋がりの元に、

日本人は辛酸を嘗めました。

「つながり」のある中で、「私は私」と言うのも

同じくらい、抜き差しならないテーマなんです。

実際、毎日一緒に何十年いても、

他人の思考を覗き見ることは、できないんです。

理性は、「つながり」を絶たれているんです。

この、相容れない両テーマ!どうします?

一方を重んじて一方に気づかない人はいます。

私が好きな西洋の哲学者たちの多くは、

理性を重んじて「つながり」にあまり触れません。

日本人は事あるごとに、「つながり」を暴発させて

個々人の違いを無視してしまいます。

「お国のため」「日本は一つ」「○○ジャパン」なんてね。

でも、どちらも大切な両テーマ、

一方のために一方を捨てるのは賢いとは思えません。

そこで、私はこう考えることにしました。

・「私」が存在する前から世界は存在している(当然だ)

・その世界はいろいろと「つながっ」ている

・「私」は、へその緒みたいにこの世界と

「つながっ」て生きている(じゃないと生きられない)

・でも、「私」の理性は独立している。私は私

・「私」は幸せに生きたいから、この「独立した理性」で、

世界との「つながり」を模索して、大切にする

ほっといたら、

「私は私」か「つながりだらけ」に流れちゃうけど、

「私は私」の「私」が「つながる」ことで生きる、幸せになる、

と言うのが、今のところの整理です。

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経費節減の本当のメリット

2週間ぶりの投稿、何しろ公私ともに多忙なもので

と言うのも、私の仕事は経理

(現場出ずっぱりの保育士じゃありません)

その私の職場もそうですが、多くは今が決算期。

現場仕事は年度末でしょうが、

事務仕事は今がとにかく忙しいです。

そしてこの時期、前年の経営成績の良し悪しで、

頭を痛めている会社も多いのではないかと思います。

そして、どこの会社でも言われているであろう言葉、

それは「経費節減」でしょう。

もちろん、私の職場でも同じです。

さて、経費節減の効果ってどれくらいでしょう?

その多くが、せいぜい数円~数十円の涙ぐましいもの、

「塵も積もれば…」と言いますが、

それで本当に収支・損益が改善されるか、

実感できない人も多いのではないでしょうか。

私の経理の経験では、誤解を恐れずに言えば

「塵は塵」なんです。よほどの冗費でない限り、

節減された経費がその会社の経営成績を左右はしません。

「では、経費節減の努力こそ、ムダなんじゃない?」

なんて言われそう。

ところが、そうじゃないんです。

経費節減に努力した会社としない会社、

他の要素を削ぎ落して比べたら、

最後に勝つのは、経費節減をした会社でしょう。

そしてその差は、「塵」の差ではないんです。

仕事の面白さ、難しさの一つは、

「質と効率のバランス」だと思います。

その勘所を押さえた会社や人が、

より少ないコストで高い利益を生む、

つまり、勝者になります。

「経費節減」とサービスの維持の両立は

どうしても「仕事そのもの」とにらみ合いになります。

ここを重視するかおざなりにするか、で

仕事の出来が違うのは、当然ではないでしょうか。

経費節減のメリットは、

「出費を抑える」ことではなく、

「人を育てる」ことにあるのではないでしょうか。

それと、全く別件の話ですが、

八丈島を愛する者として、今、思うことの1つ。

それは「三宅島を忘れないで」と言うこと。

今、福島第一原発の周辺では、

住民の退避やら一時帰宅やらが話題になっていますが、

火山か人工物かの違いはあれど、

同じようなことが11年前の三宅島でありました。

島民は、全員が島外へ避難しましたが、

ご存知ですか?

全域で居住可能になったのは、この4月からなんです。

そして、島特有の事情もあり、

復興にはまだ、困難が山積しています。

写真を見て下さい。去年の秋ですが、

森が完全には再生していないんです。

爪痕はまだ、生々しく残っています。

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隣の御蔵島と比べると、違いは一目瞭然…。

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東日本と同じように、

まだまだ支援の手が必要な場所はここにもあるんです。

そして、三宅島の記憶は、今後の東日本の復興にも

大きな助けとなるのではないでしょうか。

三宅島を、忘れないで下さい。

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わたしたちのこころがまえ

未曾有の…、挙国一致、救国大連立、

節電、自粛、「がんばろう日本」、

震災以来、よく聞く言葉です。

なるほど、確かに大変なことがあったし、

頑張らなきゃいけない、我慢しなきゃ。

それは分かります。

これらを叫ぶ声には、真摯な思いもあるでしょう。

でも、どこかで「酔っている」人も多いと思います。

と言うのは、

被災者や復興支援に携わる方ならいざ知れず、

そうでない大多数の人がすべきこと、

私たちの社会があるべき姿は、

地震があろうとなかろうと、

ほとんど変わりがないのではないか、

と思うからです。

-挙国一致・大連立-

一時、政治の世界では大連立が模索されました。

でも、それが政治のあるべき姿でしょうか。

多数の政党が牽制し、切磋琢磨、高め合う、

それが私たちの民主主義だと思います。

よく見られる、足の引っ張り合いは論外ですが、

与党と野党、異なる立場だからできる、

そんな提案があるはずです。

これは、経済にしてもその他にしても同じこと。

それを、安易に「みんなひとつ」と括ってしまうことは

健全なシステムを壊してしまう事になりかねません。

「みんな違ってみんないい」は、

子どもから大人の世界まで、例外なく適用されるべきです。

-節電-

電力供給がひっ迫しているのは分かります。

でも、節電すべきだったのは震災前も同じこと。

それを、どこか「まぁいっか」があっただけ。

夜は暗いものなんです。

健康な人間は、階段を登ればいいんです。

目的もなくテレビをつける必要はないんです。

そんな当たり前のことを、

忘れていただけじゃないでしょうか。

-自粛ムード-

いろんな事が不謹慎と言われていますね。

お花見、パチンコ、バラエティ番組。

でも、今が不謹慎ならいつだって不謹慎なんです。

本当にそう思うなら、卒業するべき。

そう思わないなら、それなりにあってもいい。

自粛したって被災者が助かる訳じゃありません。

雰囲気に酔って、損失を受けた景気を

一層冷え込ませてどうする?と言いたいところです。

-がんばろう日本-

悪くないフレーズだと思います。

頑張りどころだとも思います。

でも、何を目指して頑張るのか、

一向に見えてこない。

そもそも日本人、頑張りすぎと言う人もいました。

もしかしたら、「がんばらなくていい社会」を

つくるように頑張るべきかもしれない。

まずは、方向性を模索することを頑張るべき、

私はそう思います。

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地震とエコと経済と~私の悲観Ⅱ

我が子もんすてら。がちょっと病気になり

ここ数日、東京の自宅から横浜の職場まで

バイクで通勤していますが、驚いたことに、

ほっとんど渋滞に遭わないんですね。

ガソリンも高いけど、電車の本数も少ないんだから、

混んでもおかしくないのに。

さて、地震の影響はそこここに出ていますね。

計画停電、買い占めと店頭での商品不足、

陸海空への放射線の影響、円高と株安…。

世の中の歯車は、少しずつ、

元のように回り出しているようですが、

私は、本当に大変なのはこれからではないか、

と感じています。

景気の話でよく言う、「二番底」ってヤツですね。

原発の動向は一進一退ですが

被災地の復興や発電所の復旧は、

急ピッチで進められるでしょう。

でも、当然ですが、亡くなった人は帰ってきません。

津波に呑まれて消えた会社も、同様です。

株安・円高や停電等による不便さ、

風評や買い占め・買い控え等による

需給のバランスへの影響等も

企業の倒産や失業を促進するかもしれません。

土地・設備・従事者に壊滅的な打撃を受けた農漁業、

元から高年齢化・後継者不足が問題でしたから

工業やサービス業よりも復興は難しいでしょう。

海や土壌の放射能汚染や風評も拍車になるかもしれません。

日本の、低い食糧自給率は一層下がるでしょう。

これらが、ボディブローのように、

後からじわじわと日本社会に効いてくるでしょう。

そう、東北地方は、まさに日本のボディなんです。

そこにこれだけのダメージを受けた日本、

もう、前のようには戻れないでしょう。

朝の東京の幹線道路が空いているのも、

その予兆かもしれません。

今回の地震は、終わりの始まりではないでしょうか。

随分と悲観的なことを書きました。

でも、いたずらに不安を煽っている訳じゃありません。

思うんです。地震の前は、パラダイスだったか。

それまでの私たち、憑かれたかのように

明るさや楽しさ、便利さを追い求めていました。

その結果が原発を必要とする電力の消費や大気の汚染に

つながっていたのは、言うまでもありません。

自然環境だけでなく、私たちの身体の機能や精神も

蝕まれつつあったと思います。

何でもかんでも電気じかけで、

身体を使う機会はどんどん減っていきました。

テレビの深夜放送やコンビニは、

健全な生活リズムを奪ってしまいます。

私は、こうした生活は

「ただちに」ではなくても破滅的だと考えます。

幸か不幸か、地震の影響は私たちの生活を一変させました。

暗い町、不便な生活、家族一緒の時間、

「三丁目の夕日」ではありませんが、

昭和30年代を思い出す方も多いようです。

このままでいい、とは思いませんが、

ここから何か、今までとは違うことを始めたらどうか、

と思います。

終わりの始まりを、新しい時代の始まりにしませんか?

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地震とエコと経済と~私の悲観 Ⅰ

今回の記事、まだ自分の中では

まとまっていないながらに書きます。

書きながら、少しは頭が整理できるかな…。

今月の初めに「究極のエコ?」なる記事を書きました。

そのきっかけになった思いの一つは、

「何でもかんでもエコの大合唱だなぁ」って感じたこと。

でも、それを言っている人やっている人、

「エコ」って言われる商品を作ったり買ったりする人、

その思いには環境保全へのピュアな思いもあるのでしょうが、

私は、疑問だらけでした。

そんなんで本当に環境は保全されるの?

どこか、お遊びというか流行の空気を感じました。

それが、今回の地震で一変しました。

まず、「エコ」なんて言葉は死語になりました。

誰も口にしません。

それでいて、みんなで節電して、

車の運転や不要不急の外出を控えている、

皮肉なことに、エコの大合唱時代よりもずっと

エコな生き方をしていると思いませんか?

私は以前から「科学技術ではエコはできない」と考えていました。

科学技術が全てダメというのではありませんが、

それはあくまでも補佐的なもの。

主体は私たちの生活意識だろう、と。

これだけ紙面をにぎわす原発だって、
昨年の閣議決定でCo2排出量が少ない、
つまりエコな資源とみなされました。
「えっ、原発がエコ?」って感じですよね。

でも、数字だけを切り取ってみるとこういう判断になりかねません。

技術だけだと、何かを落としてしまうんです。

とは言え、私たちが環境保全のために、

自分たちの生活レベルを落とそう、

と言うのも、机上の空論でしょう。

だから、技術でも私たちの生活でも、

抜本的な環境保全は無理、

どこかで破滅的な変化がない限り、

自然環境の悪化は止まらないだろう、

悲観的ですが、私はそう考えていました。

昭和日本の帝国主義が、敗戦で潰えたように。

続きは、次回に書きたいと思います。


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