歴史

Remember PEARLHARBOR

お久しぶりです。

世の中、コロナと水害の報道で埋め尽くされていますね。

 

RememberPEARLHARBOR

この言葉、どんな印象を受けますか?

一般的には、アメリカ人が日本人に対して「覚えてろよ」的な意味で使われますが…

私はこの言葉に、新たな役目を与えたい、と思います。

それは、「日本人が日本人を戒める言葉」として。

あの戦争、いろいろありましたが、

私たち日本人、ヒロシマとかナガサキとか沖縄とか東京大空襲とか

「された記憶」ばかりを大切にしている気がします。

でも、「歴史は未来のためにある」と私は考えますが、

未来のために反省を活かせるのは、された事よりもしでかした事じゃないですか。

日本人が何もしなくても、原爆は落ちた。

でも、真珠湾攻撃は、日本人が踏みとどまる事もできた。

「あんな事、繰り返しちゃいけない」ってより心に留めたいのは、真珠湾の方。

Remember PEARLHARBOR、真珠湾を忘れるな。

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今年の12月8日~仰ぎ見る感動

東日本大震災に見舞われた今年、

災害の規模や放射能、原発行政のあり方などに

70年前の戦争を彷彿した人も多いと思います。

そんな中、今年の128日は、

ちょっと特別な意味のある日、だったでしょうか?

ちょうど70年前、日本は真珠湾を奇襲し、

日本とアメリカは戦争を開始しました。

815日に比べ、忘れられがちなこの日ですが、

私は終戦よりもこちらの方が重い意義があると思います。

何故なら、敗戦は日本自ら選んだ訳ではありませんが

開戦は日本が採った選択肢だから。

日本人がどんなに願っても、B29は飛んでしまいますが、

真珠湾を攻撃した零戦は飛ばさない事もできたはずなんです。

避けられたのに避けなかった、

その失敗から、学べる事は多いはずです。

そこにはたくさんの「仕方ない」があるでしょう。

ですが、「仕方ない」が「仕方ない」で流されたら破局

70年前も、この度の原発も、それを語っています。

「負けに不思議の負けなし」

やむない事情はどんな時でもあるけど、

それを切り抜けるノウハウを過去の失敗は教えてくれます。

もう二度と、私たちの空から、

爆弾も放射能も降ってほしくないですしね。

昔から不思議なのが、戦争の責任者。

ドイツにヒトラー、イタリアにムッソがいるけど

日本に「そういう人」っていませんよね。

東条英機も山本五十六もちょっと違う…。

結局、あの戦争の責任者は「国民」だと思ってます。

さて、安心して空を見上げられるって、嬉しいですね。

先日10日、子もんすてら。と皆既月食を見ました。

元々、天体には興味あったもんすてら。

半月とは違う、地球型に描かれた月の影に感動してました。

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そして翌日、三浦できれいな金星を見ました。

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今週後半には、ふたご座流星群がありますが

大きな月が近くにあるので、見えるか微妙…。

先週、主役だった月が、きっと

邪魔者のように言われてしまうのでしょうね。

人間って、ワガママ

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今年、今日という日

私の職場、ぱいなぷる保育園の事務室には

「てんしゅどう」と呼ばれる棚があり、

毎日保育士や事務の者がそこを利用しています。

そこに入っているのは、所謂裏紙、

使い終わったり、印刷等で失敗をしたコピー用紙です。

言葉あそびが好きな園長が

「浦上天主堂」から類推で名づけました。

人によっては、不謹慎と見るかもしれないネーミング、

でもこのおかげで、私たちは一年中、

遠く離れた(ほとんどの人が行ったこともない)

長崎という地、今日の日を毎日のように意識しています。

使える紙を廃棄せずになるべく何度も使う、

エコの基本だと思います。

それだけではなく、

子どもたちの前で大人がものを大切にする、

これは中身のある保育には不可欠でしょう。

さりとて、何でもかんでも裏紙にはできません。

「てんしゅどう」に入れる時、使う時、

裏に書かれた情報が、見られても大丈夫か、

緊張感を持って確認せねばなりません。

この時、否応なく「事務」に向き合うのです。

何とはなく見える裏紙の管理ですが、このように、

平和、エコ、保育の中身、情報管理と

いろんなエッセンスが詰まっているところでもあります。

そしてそれは、ささやかながら、全てが寄り集まって

子どもたち・人間の未来につながっています。

さて、今年は放射能への関心が例年にない高まり、

その中でこの日を迎えました。

明日の光があるのなら、

それは電力でも、業火でもない光であってほしい。

89日、長崎原爆忌。

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世界遺産級のLani KaiⅣ

小笠原ツアーの3日目、

昨日は自転車で近くの海を散策、でしたが、

今日は、同じ宿に泊まっているお姉さんと一緒に

車を借りて、ちょっと遠出…。

お姉さんが一緒なので、もんすてら。も嬉しそう^o^

まずは、戦時中に空襲に遭った船、

濱江丸が沈んでいる境浦へ。

八丈にはない白い砂のビーチ、

「♪Kiss in Blue Heaven~」と

歌いたくなります。

(何の歌か、分かります

松田聖子の「天国のキッス」です)

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以前にも書きましたが、世界遺産に登録された小笠原、

実は戦争の遺産もかなり残っていて、

最初にそれを見ることができるのが、ここ境浦。

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そして、沈んだ船はリーフとして、

魚たちのゆりかごになっています。

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人類の愚行と悲劇の産物が、

豊かな自然の背景となっている。

そしてその自然は、今や人類の宝になりました。

皮肉でしょうか?

いえ、私はこれを、人類の進歩と呼びたいです。

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お昼ごはんは、港近くで買ったドーナツ、

フワフワで優しい味。すっごく美味しかった。

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そして島を南へ、意外なことに、

こんな立派な川もあるんです。

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それが流れ込む小港海岸。

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そこから山道を歩くこと20分、

中山峠からの景色は最高でした。

手前の小港、奥のコペペ海岸と

湾がきれいに円弧を描いています。

そしてはるか遠くに見える二見港に戻って…

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夜は夜、最高のショーが待っていました。

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街の目の前、前浜海岸でウミガメの産卵、

感動したのは最初だけ、

あまりにもたくさんいるので、

浜辺を歩くウミガメがカニくらいにしか見えなくなる、

小笠原ってすごいところだね、

現地で知り合った友達と話しました。

さて、明日はいよいよ、島を去る日です。

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世界遺産級のLani KaiⅠ

平泉と並んで世界遺産に登録される見込みの小笠原、

だからと言う訳ではありませんが、

この度、子もんすてら。と二人で行ってきましたっ!

(職場はじめ、長期間の不在を許してくれた

多方面の方々には、感謝しきりですm(_ _)m)

それにしても、小笠原が世界遺産に認定されるのと、

沖縄戦慰霊の日(今日)が時期が同じ頃なのって

同じ「南の島」として不思議な縁を感じます。

と言うのも、時期は違えど小笠原も、

硫黄島と言う激戦地があって、

父島にもあちこちに爪痕が残っています。

そして、空襲で沈んだ船に魚たちが住みついていたり、

自然と爪痕が融合しているんです。

世界遺産になるのは、豊かな自然かもしれませんが、

私たちは、自然と歴史、両方を大切にしなければなりません。

さて、カタい話はおいといて…、

いつも八丈島に行くおなじみの竹芝桟橋から出港。

おがさわら丸にはレディスルーム、ファミリールーム、

チャイルドルーム(子どものあそび部屋)が完備され、

家族連れにはかなりウレシイ船(さるびあ丸とは大違い)。

レディスルームもファミリールームも、

所謂二等船室ですが、船旅は二等船室に限ります。

袖摺り合うも多少のご縁、プライバシーのある一等より

お隣の人と船旅を楽しめる方が絶対いい!

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それにしてもこの日は強風+豪雨、

しばらく見れない地元金沢沖の景色を眺めたら外海、

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船は大揺れになるので甲板外出は禁止になりました。

そしてこれから10時間、船は地獄のごとく揺れました…。

そして前線から離れた翌朝、空は晴れ渡り、甲板は…、暑っ

遠くには婿島が見え、小笠原諸島に入ったことを実感しました。

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そして父島、二見港に入港するおが丸、

島のガイドクルーザーが出迎えてくれました。

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と、あれはもしや…、マンタ?

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そして島に上陸、

スチールドラムの演奏が出迎えてくれました。

灼熱の太陽、咲き誇るデイゴやブーゲンヴィリア、

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八丈とも沖縄とも違う、南国生活の始まりです。

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記憶は活かしてこそ

学生の頃、試験で間違えた問題、

「今度同じ問題が出たら…」って思ったこと、

誰でもあると思います。

でも、同じ問題が出ることはほとんどない。

多少なりともパターンが違ったりして、

「それだけ」がわかっても改善にはなりません。

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今朝、携帯電話で撮った写真です。

満員の京浜急行の電車が、黄金町駅を通過するところ。

横浜・東京方面へ大勢の通勤客を運ぶ、いつもの光景。

66年前の一昨日、ここで起きたことを

意識に留めている人は、そう多くはないでしょう。

昭和20529日、横浜大空襲。

その日の朝930分頃、

横浜の空に連合国軍の大編隊が迫り、

震災から立ち直ったばかりの町を焼き尽くしました。

空襲警報で、最寄りの黄金町駅に停車した京浜電気鉄道、

乗客たちの多くは、高架下に避難したそうです。

折しもその時、その頭上で焼夷弾が炸裂し、

業火の滝が人々を襲いました。

東京の言問橋と並び、悲しい記憶がそこに焼きつきました。

私は以前、横浜大空襲について書いた時

平和を守るには「知ること」が大切ではないか、

と書きました。

過去の記憶は、多くの教えを授けてくれるでしょう。

さて、冒頭にも書きましたが、

この記憶を想起した人、多くはいなかったように思います。

新聞やニュースの話題は、ほとんどが震災関連、

それ以外の報道は、ほとんどありません。

視聴者・読者の関心が薄いせいから報道しないのか、

報道しないから視聴者・読者の関心が薄いのか。

その震災関連のニュースでは、

「想定内・想定外」と言う言葉がしばしば聞かれます。

でも、災害や事件は、どこまで想定できるのでしょう。

起きる事象が一つなら、ある程度は想定できます。

が、同時に複合的に起きることは、想定しきれません。

地震と台風や火山の噴火が同時に起きたら、

国際緊張が高まっていて、海外からの支援がなかったら、

テロやストライキ、不祥事などの人的条件が重なったら…。

一つの災害時に、他の事件が重ならない保証は、ありません。

「備えあれば憂いなし」と言いますが、

これはあくまでも心がけの話。

どんな防潮堤を築こうが、最強の軍隊を並べようが、

実際は、全てに応じられる「備え」なんて不可能です。

では、私たちはこれらに、無力なのでしょうか。

最終的に、防ぎえない事態はあると思います。

でも、ベストは尽くすことができる。

その道筋として、過去の教訓を最大限に活かしたい。

今は、どうでしょう?

地震の後は地震の話、飛行機が落ちれば飛行機の話題ばかり。

横浜大空襲の悲劇と今の原発の事態は、

「神話の崩壊」と言う点でとても似ています。

また、先日「三宅島を忘れないで」と書きましたが、

今回の避難・復興に、三宅島の経験を活かさないのは

あまりにもったいないと思います。

過去の経験を活かしきっているとはとても言えないし、

今の経験が将来、活かしきれるとも思えません。

このままでは、今後起きる大災害も全て「想定外」でしょう。

直近の一つの話題に終始しないで、

いろいろな過去の経験から柔軟に学ぶ。

これが、「想定外」に対する

「備え」の第一歩ではないでしょうか。

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昨日は誕生日でした

前回の記事で扱った「荒城の月」、

テーマを乱暴にまとめてしまえば、

「侘び寂び」または「盛者必衰」でしょうか。

日本人以外には、理解しづらいテーマ、

だからこそ、日本人のアイデンティティに

しっかり根ざしていると思います。

でも、私もこれらは大好きですが、

もっと好きなものがあります。

それは、言葉で表せば「どっこい生きてる」

逆境でも、目立たなくても、

めげずに生きてる底力の強さが大好きです。

これ、「盛者必衰」と一見逆のようですが、

「盛者は衰えるけど、雑草は変わらず伸びるよ」

と言う、表裏一体のテーマと言えなくもありません。

「荒城の月」の歌詞にも描かれる、

松や葛は、どっこい生きてますからね。

さて、私が大好きな船、氷川丸も、

「どっこい生き延びた」船、でしょう。

日本横浜と、米国シアトルを結ぶべく造船されながら、

戦時中は病院船に改造され、

幾度の魚雷を受けても沈まなかった。

戦後は引揚船として活躍し、幾多の命を救いました。

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そして平成、みなとみらい地区の隆盛の陰で、

廃船の一歩手前までいきました。

それでも生き残り、

昨年425日には、80歳の誕生日を迎えました。

横浜と言う、氷川丸の2倍に満たない浅い歴史、

その出鼻を挫いた関東大震災、

その瓦礫でつくった山下公園が母港、

何だか、震災から立ち直ろうとする今と

氷川丸の人生(船生?)にはつながりを感じます。

「どっこい生きてる」どころか、

ずいぶん派手な存在になっちゃいましたが、

必衰の「驕れる平家」ではなく「大器晩成」。

押しも押されぬ横浜のシンボルに、

心から「81歳おめでとう」と言いたい気持ちです。

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もう、大海原は走らないけど、

過去を背負うからこそ、

未来に向いたスクリューが止まることはない、

そんな気がします。

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荒城の月

作曲 瀧廉太郎 作詞 土井晩翠

春高楼の花の宴 巡る盃影さして

千代の松が枝分け出でし 昔の光今いずこ

秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁の数見せて

植うる剣に照り沿いし 昔の光今いずこ

今荒城の夜半の月 変わらぬ光 誰がためぞ

垣に残るはただ葛 松に歌うはただ嵐

天上影は変わらねど 栄枯は移る世の姿

映さんとてか今もなお ああ荒城の夜半の月

昨年の日、この歌についての記事を書きました。

お花見に代表される現代人の乱痴気と、

その後、満開の枝が装った雪化粧、

そこに見られる人の傲慢さと異常気象に、

この歌の戒めを感じた思いがしたものです。

そして今の日本を取り巻く状況、

今一度、自分の記事を読み返し、

手前味噌ながら、背筋が寒くなりました。

さて、薄気味悪い話はおいといて…

実は私、この歌の作曲者、瀧廉太郎のファンなんです。

そこで、今日はこの歌について少々。

この歌のモデルとなったお城はどこか、

諸説ありますが、以下の2説が特に有力だそうです。

ひとつは、瀧廉太郎の故郷、大分の竹田城と言う説、

それから、土井晩翠の故郷、仙台の青葉城と言う説。

歌詞にも曲名にも、固有名詞は書かれていないので

私は「両方でいいじゃん」と思いますが、

強いて言うなら、私は青葉城だと思います。

何故なら、この歌は詩が先につくられたから。

その詩を載せるように、後から曲がつくられたんです。

ならば、土井晩翠のイメージをくみ取る方が、

自然な気がします。

(あくまでも、私がそう感じているだけです)

なお、「千代」は「せんだい」にかかっているそうです。

ところで、桜の季節、私の住む横浜や東京は、

あっという間に過ぎ去ってしまいました。

今、桜前線はそれこそ青葉城のあたりでしょうね。

幸か不幸か、かの地にこの歌が似合う時は

今をおいてないのではないか、と思います。

いえ、照明の消えた首都圏だって同じです。

ですが、花の命は短いけれど、

光豊かな歳も乏しい歳も咲き誇る桜、

人の世の儚さに比べれば、何とも頼もしいもの。

被災地も、日本全体も、一度は傷ついたけど、

もう一度花を咲かせてくれたら、と思います。

話は飛びますが、

先日、山下公園でこんな写真を撮りました。

マリンタワーにかかる飛行機雲。

タワーを中心に、「Y」を描いています

(よく見れば「X」ですが…)。

一度は取り壊しの危機に遭いましたが、

やっぱり「YOKOHAMA」のシンボルですからね。

今は、照明を発光ダイオードにし、時間を短縮して、

消費電力を99%カットしているとか。

入場料の半分は、義援金に寄附されるそうです。

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再投稿~「ゆりかごのうた」に注ぐ母の愛

2年以上前に書いた記事をひっぱり出しました。

「歌は器」と思います。

気持ちや心を注ぎ、

誰かに差し出す「心の器」。

やさしい歌詞と旋律、

幼な子を慈しむ母の愛を注ぐには、

この歌に優る器はないでしょう。

大正時代に作られ、平成の今に至るまで、

どれだけの愛がこの器に注がれたでしょう。

どれだけの子が、この愛を注がれたでしょう。

子もんすてら。が乳児だった頃、

寝かせつけによく、この歌を聴かせました。

「かなりや」の箇所の音が低すぎで、

寝つきの悪い夜は

咽喉が痛くなった覚えがあります。

この歌がつくられた頃に思いを馳せました。

大正時代中頃。

大正浪漫、なんてハイカラな雰囲気もあれば、

終盤には大震災があり、

そして昭和の軍靴が聞こえてきそう。

そして、当時この歌で育てられた子は、

どんな人生を歩んだのでしょう。

ちょうど、成人するか、しないかの頃、

日本は戦争を始めます。

戦場で散った方、

沖縄で自決された方も、

させた方もいるかもしれません。

外国で苦しんだ方も、

現地の方を苦しめた方もいるでしょう。

飢えに苦しんだり、大切な人を喪くした方、

たった今、この歌で寝ついたばかり、

「あつい」という言葉も覚えていないのに、

B29の焼夷弾で焼かれた幼子もいたはずです。

日本中、大勢の方がこの歌で育てられたはず。

いろんな人生が待ち受けていたのでしょうが、

間違いがないのは、

「この歌を聴かせた母親は、

そんな人生を願ってうたった訳ではない」

ということ。

国際関係とか、政治とか経済とか、

赤とか白とか右とか左とか、

詳しいことはわかりません。

ただ、子どもの笑顔と寝顔、

これに優る富はありません。

私は、祈ります。

ゆりかごが二度と

乱暴に揺すられないように。

66年前の今夜、東京の下町に

おびただしい焼夷弾が降り注ぎ、

隅田川は2度目の「死の運河」となりました。

私たちは、過ちを繰り返さないことでのみ、

過去の償いと弔いができるのではないでしょうか。

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戦前につくられた日本最古の地下鉄、銀座線。

焼夷弾に遭わないこの電車で避難して

助かった方もかなりいるそうです。

地の下のゆりかご、と言えるかもしれません。

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忘れちゃいけないあの日・・・

今日は1217日、今年もあと2週間ですね

師も走る師走の忙しさにかまけて、

恥ずかしながら私は、

あの日が過ぎた事に気づきませんでした。

128日…、

69年前、日本はハワイの真珠湾を空襲し、

これを契機に太平洋戦争が勃発した日です。

815日、

終戦記念日を意識しない人は、あまりいません。

それは、テレビや新聞から

嫌でもその情報が流れてくるから。

でも、対極にある真珠湾攻撃の日を

忘れてしまう人は、私だけではないでしょう。

日本人にとって、終戦ほどの重みはないようです。

でも、忘れていた自分を棚に上げてしまいますが、

私はこの日から学べるものは、

終戦の日以上だと思っています。

何故なら、終戦(敗戦)は避けられなかったけど、

開戦は「避けられた」から。

私が、あの戦争から最も学びたいことは

「何故、戦争を避けなかったか」

言い訳でもいいから、

開戦に至る判断をした人・それに賛成した人の

言い分が聞きたいんです。

戦争をすることで、どんなメリットを見込んだか。

それは、あの戦争を正当化したいからではありません。

これからも起きるであろう平和に対する障害、

例えば、貧困であったり、他国との衝突であったり。

戦争って、(少なくとも大義名分は)

それらに流されて「戦争するしかない」

って判断から起きるものだと思います。

そんな時、戦争の悲惨さだけを訴えても、

「背に腹は代えられない」で押し切られてしまうでしょう。

だから私は、戦争の悲惨さ以上に、

そのメリットについて知っておきたいんです。

日本が真珠湾を攻撃するに至った時、

このメリットとデメリットが激しく衝突したはず。

そこには、平和を守るためには学ぶべき

素晴らしい反面教師がいるはずです。

それに、私は知っています。

どんな状況下、戦争にどんなメリットがあると知っても、

平和に勝るメリットはみつからないことを。

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