平和

Remember PEARLHARBOR

お久しぶりです。

世の中、コロナと水害の報道で埋め尽くされていますね。

 

RememberPEARLHARBOR

この言葉、どんな印象を受けますか?

一般的には、アメリカ人が日本人に対して「覚えてろよ」的な意味で使われますが…

私はこの言葉に、新たな役目を与えたい、と思います。

それは、「日本人が日本人を戒める言葉」として。

あの戦争、いろいろありましたが、

私たち日本人、ヒロシマとかナガサキとか沖縄とか東京大空襲とか

「された記憶」ばかりを大切にしている気がします。

でも、「歴史は未来のためにある」と私は考えますが、

未来のために反省を活かせるのは、された事よりもしでかした事じゃないですか。

日本人が何もしなくても、原爆は落ちた。

でも、真珠湾攻撃は、日本人が踏みとどまる事もできた。

「あんな事、繰り返しちゃいけない」ってより心に留めたいのは、真珠湾の方。

Remember PEARLHARBOR、真珠湾を忘れるな。

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今年の12月8日~仰ぎ見る感動

東日本大震災に見舞われた今年、

災害の規模や放射能、原発行政のあり方などに

70年前の戦争を彷彿した人も多いと思います。

そんな中、今年の128日は、

ちょっと特別な意味のある日、だったでしょうか?

ちょうど70年前、日本は真珠湾を奇襲し、

日本とアメリカは戦争を開始しました。

815日に比べ、忘れられがちなこの日ですが、

私は終戦よりもこちらの方が重い意義があると思います。

何故なら、敗戦は日本自ら選んだ訳ではありませんが

開戦は日本が採った選択肢だから。

日本人がどんなに願っても、B29は飛んでしまいますが、

真珠湾を攻撃した零戦は飛ばさない事もできたはずなんです。

避けられたのに避けなかった、

その失敗から、学べる事は多いはずです。

そこにはたくさんの「仕方ない」があるでしょう。

ですが、「仕方ない」が「仕方ない」で流されたら破局

70年前も、この度の原発も、それを語っています。

「負けに不思議の負けなし」

やむない事情はどんな時でもあるけど、

それを切り抜けるノウハウを過去の失敗は教えてくれます。

もう二度と、私たちの空から、

爆弾も放射能も降ってほしくないですしね。

昔から不思議なのが、戦争の責任者。

ドイツにヒトラー、イタリアにムッソがいるけど

日本に「そういう人」っていませんよね。

東条英機も山本五十六もちょっと違う…。

結局、あの戦争の責任者は「国民」だと思ってます。

さて、安心して空を見上げられるって、嬉しいですね。

先日10日、子もんすてら。と皆既月食を見ました。

元々、天体には興味あったもんすてら。

半月とは違う、地球型に描かれた月の影に感動してました。

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そして翌日、三浦できれいな金星を見ました。

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今週後半には、ふたご座流星群がありますが

大きな月が近くにあるので、見えるか微妙…。

先週、主役だった月が、きっと

邪魔者のように言われてしまうのでしょうね。

人間って、ワガママ

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今年、今日という日

私の職場、ぱいなぷる保育園の事務室には

「てんしゅどう」と呼ばれる棚があり、

毎日保育士や事務の者がそこを利用しています。

そこに入っているのは、所謂裏紙、

使い終わったり、印刷等で失敗をしたコピー用紙です。

言葉あそびが好きな園長が

「浦上天主堂」から類推で名づけました。

人によっては、不謹慎と見るかもしれないネーミング、

でもこのおかげで、私たちは一年中、

遠く離れた(ほとんどの人が行ったこともない)

長崎という地、今日の日を毎日のように意識しています。

使える紙を廃棄せずになるべく何度も使う、

エコの基本だと思います。

それだけではなく、

子どもたちの前で大人がものを大切にする、

これは中身のある保育には不可欠でしょう。

さりとて、何でもかんでも裏紙にはできません。

「てんしゅどう」に入れる時、使う時、

裏に書かれた情報が、見られても大丈夫か、

緊張感を持って確認せねばなりません。

この時、否応なく「事務」に向き合うのです。

何とはなく見える裏紙の管理ですが、このように、

平和、エコ、保育の中身、情報管理と

いろんなエッセンスが詰まっているところでもあります。

そしてそれは、ささやかながら、全てが寄り集まって

子どもたち・人間の未来につながっています。

さて、今年は放射能への関心が例年にない高まり、

その中でこの日を迎えました。

明日の光があるのなら、

それは電力でも、業火でもない光であってほしい。

89日、長崎原爆忌。

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記憶は活かしてこそ

学生の頃、試験で間違えた問題、

「今度同じ問題が出たら…」って思ったこと、

誰でもあると思います。

でも、同じ問題が出ることはほとんどない。

多少なりともパターンが違ったりして、

「それだけ」がわかっても改善にはなりません。

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今朝、携帯電話で撮った写真です。

満員の京浜急行の電車が、黄金町駅を通過するところ。

横浜・東京方面へ大勢の通勤客を運ぶ、いつもの光景。

66年前の一昨日、ここで起きたことを

意識に留めている人は、そう多くはないでしょう。

昭和20529日、横浜大空襲。

その日の朝930分頃、

横浜の空に連合国軍の大編隊が迫り、

震災から立ち直ったばかりの町を焼き尽くしました。

空襲警報で、最寄りの黄金町駅に停車した京浜電気鉄道、

乗客たちの多くは、高架下に避難したそうです。

折しもその時、その頭上で焼夷弾が炸裂し、

業火の滝が人々を襲いました。

東京の言問橋と並び、悲しい記憶がそこに焼きつきました。

私は以前、横浜大空襲について書いた時

平和を守るには「知ること」が大切ではないか、

と書きました。

過去の記憶は、多くの教えを授けてくれるでしょう。

さて、冒頭にも書きましたが、

この記憶を想起した人、多くはいなかったように思います。

新聞やニュースの話題は、ほとんどが震災関連、

それ以外の報道は、ほとんどありません。

視聴者・読者の関心が薄いせいから報道しないのか、

報道しないから視聴者・読者の関心が薄いのか。

その震災関連のニュースでは、

「想定内・想定外」と言う言葉がしばしば聞かれます。

でも、災害や事件は、どこまで想定できるのでしょう。

起きる事象が一つなら、ある程度は想定できます。

が、同時に複合的に起きることは、想定しきれません。

地震と台風や火山の噴火が同時に起きたら、

国際緊張が高まっていて、海外からの支援がなかったら、

テロやストライキ、不祥事などの人的条件が重なったら…。

一つの災害時に、他の事件が重ならない保証は、ありません。

「備えあれば憂いなし」と言いますが、

これはあくまでも心がけの話。

どんな防潮堤を築こうが、最強の軍隊を並べようが、

実際は、全てに応じられる「備え」なんて不可能です。

では、私たちはこれらに、無力なのでしょうか。

最終的に、防ぎえない事態はあると思います。

でも、ベストは尽くすことができる。

その道筋として、過去の教訓を最大限に活かしたい。

今は、どうでしょう?

地震の後は地震の話、飛行機が落ちれば飛行機の話題ばかり。

横浜大空襲の悲劇と今の原発の事態は、

「神話の崩壊」と言う点でとても似ています。

また、先日「三宅島を忘れないで」と書きましたが、

今回の避難・復興に、三宅島の経験を活かさないのは

あまりにもったいないと思います。

過去の経験を活かしきっているとはとても言えないし、

今の経験が将来、活かしきれるとも思えません。

このままでは、今後起きる大災害も全て「想定外」でしょう。

直近の一つの話題に終始しないで、

いろいろな過去の経験から柔軟に学ぶ。

これが、「想定外」に対する

「備え」の第一歩ではないでしょうか。

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再投稿~「ゆりかごのうた」に注ぐ母の愛

2年以上前に書いた記事をひっぱり出しました。

「歌は器」と思います。

気持ちや心を注ぎ、

誰かに差し出す「心の器」。

やさしい歌詞と旋律、

幼な子を慈しむ母の愛を注ぐには、

この歌に優る器はないでしょう。

大正時代に作られ、平成の今に至るまで、

どれだけの愛がこの器に注がれたでしょう。

どれだけの子が、この愛を注がれたでしょう。

子もんすてら。が乳児だった頃、

寝かせつけによく、この歌を聴かせました。

「かなりや」の箇所の音が低すぎで、

寝つきの悪い夜は

咽喉が痛くなった覚えがあります。

この歌がつくられた頃に思いを馳せました。

大正時代中頃。

大正浪漫、なんてハイカラな雰囲気もあれば、

終盤には大震災があり、

そして昭和の軍靴が聞こえてきそう。

そして、当時この歌で育てられた子は、

どんな人生を歩んだのでしょう。

ちょうど、成人するか、しないかの頃、

日本は戦争を始めます。

戦場で散った方、

沖縄で自決された方も、

させた方もいるかもしれません。

外国で苦しんだ方も、

現地の方を苦しめた方もいるでしょう。

飢えに苦しんだり、大切な人を喪くした方、

たった今、この歌で寝ついたばかり、

「あつい」という言葉も覚えていないのに、

B29の焼夷弾で焼かれた幼子もいたはずです。

日本中、大勢の方がこの歌で育てられたはず。

いろんな人生が待ち受けていたのでしょうが、

間違いがないのは、

「この歌を聴かせた母親は、

そんな人生を願ってうたった訳ではない」

ということ。

国際関係とか、政治とか経済とか、

赤とか白とか右とか左とか、

詳しいことはわかりません。

ただ、子どもの笑顔と寝顔、

これに優る富はありません。

私は、祈ります。

ゆりかごが二度と

乱暴に揺すられないように。

66年前の今夜、東京の下町に

おびただしい焼夷弾が降り注ぎ、

隅田川は2度目の「死の運河」となりました。

私たちは、過ちを繰り返さないことでのみ、

過去の償いと弔いができるのではないでしょうか。

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戦前につくられた日本最古の地下鉄、銀座線。

焼夷弾に遭わないこの電車で避難して

助かった方もかなりいるそうです。

地の下のゆりかご、と言えるかもしれません。

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忘れちゃいけないあの日・・・

今日は1217日、今年もあと2週間ですね

師も走る師走の忙しさにかまけて、

恥ずかしながら私は、

あの日が過ぎた事に気づきませんでした。

128日…、

69年前、日本はハワイの真珠湾を空襲し、

これを契機に太平洋戦争が勃発した日です。

815日、

終戦記念日を意識しない人は、あまりいません。

それは、テレビや新聞から

嫌でもその情報が流れてくるから。

でも、対極にある真珠湾攻撃の日を

忘れてしまう人は、私だけではないでしょう。

日本人にとって、終戦ほどの重みはないようです。

でも、忘れていた自分を棚に上げてしまいますが、

私はこの日から学べるものは、

終戦の日以上だと思っています。

何故なら、終戦(敗戦)は避けられなかったけど、

開戦は「避けられた」から。

私が、あの戦争から最も学びたいことは

「何故、戦争を避けなかったか」

言い訳でもいいから、

開戦に至る判断をした人・それに賛成した人の

言い分が聞きたいんです。

戦争をすることで、どんなメリットを見込んだか。

それは、あの戦争を正当化したいからではありません。

これからも起きるであろう平和に対する障害、

例えば、貧困であったり、他国との衝突であったり。

戦争って、(少なくとも大義名分は)

それらに流されて「戦争するしかない」

って判断から起きるものだと思います。

そんな時、戦争の悲惨さだけを訴えても、

「背に腹は代えられない」で押し切られてしまうでしょう。

だから私は、戦争の悲惨さ以上に、

そのメリットについて知っておきたいんです。

日本が真珠湾を攻撃するに至った時、

このメリットとデメリットが激しく衝突したはず。

そこには、平和を守るためには学ぶべき

素晴らしい反面教師がいるはずです。

それに、私は知っています。

どんな状況下、戦争にどんなメリットがあると知っても、

平和に勝るメリットはみつからないことを。

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あの頃の人への思い

前回の記事も65年前の空襲の話、

よく言われるのが「かわいそうだったよね」

うーん、私ももちろん、その印象はあります、が

もうひとつ、絶対に拭えない思いがあります。

誤解を恐れずに言ってしまえば、

(あの頃の人って)バカじゃない?」ってこと。

ひどいですか?非難ゴウゴウ?

ただし、ここで言う「あの頃の人」は大人です。

子どもは例外として聞いて下さい。

「何で『戦争反対』って思わなかったの?」

って、思いませんか?

ここでよく返ってくる反論は、

①「そういう時代だから仕方なかった」

②「思っていても、言えなかった」

③「思ったところで、戦争は回避できなかった」

そうですね、私も、(読みかじり聞きかじりの

浅い知識の限りですが)①②③その通りと思います。

でも、でも、です…、

①確かに、国を挙げての戦争賛美、

入ってくる情報は、どんどん濃くなって

それに反対の意見は次第に影を薄くしていく中では

わからなくもありません。

でも、戦争の悲惨さ、あの頃の日本人も

(それなりに)知っていたはずです。

それをどうして、保てなかったのか…。

「欲しがりません勝つまでは」とか

「撃ちてしやまん」とか、

あの頃の勇ましくも殊勝なスローガン、

あれ、軍部からじゃなく国民がつくったんですよ。

②憲兵が怖い顔をしする中で、「戦争反対」は言えません。

私も、多分、口では「バンザイ」って言ったでしょう。

真っ向から体制に楯突くべきとは思いません。

でも、①にもメゲずに理性を保って、

お腹の中でそれを思うことはできたはず。

もちろん、言動には出ないから憲兵には何もできない。

そして、みんながそう思うと「匂い」で出るんですね。

③戦争は回避できなかったと思います(素人意見ですが)

でも、国民がここまで従順で好戦的でなかったら

政府や軍部は、「一億総玉砕」「本土決戦」まで

言えなかったと思うんです。

今から思うと不完全でも、一応は民主主義国家。

みんなから、「匂い」が出てたら

政府軍部も無視はできなかったはずなんです。

「ね、最近アメリカより国民のがコワいよ。

そろそろトルーマン君にゴメンしちゃおうよ」

って判断が出てきたんじゃないか、そしたら、

ここまで戦災はひどくなかったのではないか、と思います。

歴史にifはナンセンス、と言います。

確かに、意味はないし、そもそも素人の推測です。

でも、大切なのはそこから学ぶこと、

そして感じるのは、同調圧力に弱い現代の私たちが

あの頃と何も変わらないと言うこと。

流行や空気を読んだり、状況で判断することも大切ですが、

どんな時でも、「大切なものは何?」って

常に疑うことではないか、と思います。

追記

815日を過ぎたら、書店からもテレビからも

戦争ものの本や情報が激減しましたね。

何だか、半年違いのチョコレートと同じ扱いに感じます。

まぁ、北京五輪に沸いた2年前なんか、

15日も忘れられてた感じがしたから、

今年はまだ、マシな方かもしれません

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「凧になったお母さん」を読んで

「火照るの墓」で有名な野坂昭如の著作です。

小学生くらいの子ども向けの童話なので、

大人なら10分もあれば読めてしまいます。

でも、私は何だか、とても重い印象を受けました。

主人公のカッチャンは5歳、

昭和16年の8月15日を、たった一人で迎えました。

お父さんは戦地、二人で暮らしていたお母さんは…。

10日前、カッチャンの街を空襲が襲いました。

基地も工場もない小さな田舎町、

B29が、どこかの空襲の余りの焼夷弾を

気まぐれで落としただけの空襲。

身体ひとつで、すぐに逃げればよかったのに、

お母さんは、お父さんの衣服をまとめてから家を出ます。

でも、もう町は火に包まれています。

幼いカッチャンを連れて、安全な所まで逃げられません。

やむなく駆け込んだのが、近所のいつもあそんでいる公園、

消火用にと砂を供出された砂場の跡の窪地でした。

周りを業火に囲まれて、二人は逃げ場を失います。

公園の桜の枝は、炎で満開。

砂があれば、潜れば少しはしのげるのに…。

熱風に晒されたカッチャンの顔は何とも苦しそうです。

そこで何とかカッチャンを助けたいお母さん、

滝のような自分の汗をカッチャンの顔に塗りました。

一時、カッチャンの顔に潤いが戻ります。

でも、汗はすぐに出なくなりました。

そしたらお母さん、何もしてあげられない自分が

悲しくなったのでしょうか、涙が出てきました。

これなら、とどんどん悲しい事を考えました。

カッチャンが生まれた日、ハイハイの思い出、

卒乳には、乳首にカラシを塗りなさいと言われたけど、

カッチャンがかわいそうでとてもできなかったこと、

お父さんと3人で、この公園で遊んだのは最近のこと。

溢れた涙をカッチャンの頬に塗りました。

そして遂に、涙も出なくなりました。

煙のせいか、涙が枯れたせいか、

もう、お母さんは目も見えなくなりました。

お母さんが幼い頃を思い出したのが通じたのか、

ふと気がつくと、カッチャンは

お母さんの乳房を吸っています。

そこで「あとでいくらでも吸わせてあげるからね」

と、お母さん、カッチャンの口から乳房を引き抜き、

母乳を顔に塗りました。

この方が、いくらかカッチャンも楽そうです。

しかし、火の勢いよりも先に、母乳が尽きました。

どこかに水はないのか、と考えたら、

お母さんの身体中、毛穴と言う毛穴から、

血が吹き出し、カッチャンに注がれました。

そして火が消え、夜が明けました。

空襲の後は、必ず強い風が吹きます。

カッチャンを守るように覆い被さったお母さん、

身体中の水分を使い果たしたお母さん、

干物のようにカラカラになったお母さんは、

その風に吹かれて、飛んで行ってしまいました。

8月15日、

孤児となったカッチャン、

10日間、何も食べていないカッチャンも、

お母さんと同じように、カラカラでした。

そして、風に吹かれて、

お母さんのいる空へ飛ばされて行きました。

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再投稿~青い目の人形と横浜

青い眼をしたお人形は
アメリカ生まれのセルロイド 

日本の港へついたとき
いっぱいなみだをうかべてた
わたしは言葉がわからない
迷子になったらなんとしょう 

やさしい日本の嬢(じょう)ちゃんよ
なかよくあそんでやっとくれ
なかよくあそんでやっとくれ 

開港151周年に沸く横浜、

山下公園から元町までは、

ポーリン橋を渡っていくことができます。

頭上にマリンタワー、夜は眼下にガス灯、

眼前には山下公園と氷川丸、

港もフランス山も臨めるこの橋は、

間違いなく、横浜散策のメインコースでしょう。

この橋のたもと、横浜人形の家の前に、

橋の名の由来、青い目の人形「ポーリン」の

銅像があります。

人形の銅像なんて、如何にも奇妙ですが、

ふくよかな頬、愛らしい顔、

この人形の愛され、また歩んだ時を思えば、

それも不思議はありません。

世界から次第に硝煙立ち上る昭和2年、

その世界への玄関口、

震災から立ち直った横浜港に接岸した天洋丸。

アメリカの子どもたちからの友好のしるし、

13,000体の青い目の人形も

この時、日本の地を踏みました。

この中の1体、ポーリンは、

横浜港にほど近い、国民学校で

愛されることになりました。

人形たちが日本全国の

小学校・幼稚園・保育園に配られた14年後、

それはちょうど、

ポーリンが国民学校に来た年に入学した子が、

成人した年に当たりますが、

日本は人形たちの祖国に、

無謀かつ卑劣な攻撃を仕掛け、戦争が始まります。

「アメリカは敵だ」と、軍の司令により

青い目の人形は処分されていきます。

あるものは焼かれ、あるものは首を刎ねられ。

その行為を、軍人や教員ではなく、

子どもたちに強いたところもあるそうです。

ポーリンを含め、僅かな人形だけが、

子ども・教員・保母らの心により

隠され、無事でいることができました。

昭和20年、米軍は日本本土への空襲を強め、

全国の都市が焦土と廃墟に塗り変わっていきます。

東京大空襲の悲惨さは、ご存じと思います。

しかしこの後、東京を中心とする日本本土には、

それまでに比べると相対的な平穏が訪れます。

それは、沖縄での地上戦が激化し、

本土への攻撃が手薄になったから。

しかし、沖縄が陥落寸前となった5月後半、

再び本土への攻撃は激しさを増します。

そして65年前の今日、529日朝、

18年前に人形たちが船から足を降ろした横浜に、

東京大空襲の2倍近い600機以上の

B29と戦闘機が空襲を開始します。

横浜大空襲が東京大空襲と何より違うのは、

時間帯が昼間であること。

寝込みではないので、東京の時よりも

逃げ遅れは少なかったかもしれません。

実際、東京大空襲以上の爆弾が投下されても、

死者数は東京には及びません。

しかし、仕事や学校で、

家族が離れている時間帯でのこと、

行方不明者は東京大空襲を超えるという

一説もあるそうです。

そして大量の爆弾から逃げ惑う人々を、

戦闘機の機銃正射が襲います。

ポーリンのいる国民学校の付近は

特に標的にされました。

付近では、高架駅の下に人々が避難したところ

  駅の真上に焼夷弾が落ち、

灼熱の滝に500人が焼かれたそうです。

昼間空襲の犠牲者は、日本人だけではありません。

闇に隠れることのないB29、

70機あまりが、高射砲で撃墜されました。

撃墜された飛行機は、それ自体が凶器となって

人々の頭の上に落ちてきます。

遠く離れた敵国に落ちた米兵たちは

最期の瞬間に何を思ったでしょう。

「トルーマン大統領万歳!」と

叫ばなかったことは、確かだと思います。

日米の子の、人形に託した思いにも関わらず、

米国の軍人は、

その人形の上に爆弾を落としました。

日本人の大人は、その原因を作りました。

この悲惨極まる空襲の被災者数は31万人、

当時の横浜市民の1/3にあたるそうです。

しかし、この歴史的事実は、

東京大空襲の陰に隠れ、あまり知られていません。

過去に、明治、大正につくられた歌と、

その歌とともに人が歩んだ戦争の歴史について

記事にしました。

「ゆりかごのうた」では、

私は、二度と悲劇が起きないことを祈る

と書きました。

「花」では、現在の平和に感謝する、と。

「青い目の人形」は、私たちに、

過去の史実を知ることを

求めているように思えてなりません。

そうそう、ポーリンの本物は、今も無事、

西区の小学校でちゃんと保存されています。

写真も、ご覧になって下さい。

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再投稿~「花」春のうららの隅田川に思うこと

春のうららの隅田川 のぼりくだりの船人が

櫂のしづくも花と散る ながめを何にたとふべき

見ずや あけぼの露浴びてわれにもの言ふ櫻木を

見ずや 夕ぐれ手をのべてわれさしまねく青柳を

錦おりなす長堤にくるればのぼるおぼろ月

げに一刻も千金のながめを何にたとふべき

もうすぐ桜の季節、日本人にとって、

文字とおり「花盛り」の季節です。

そして、滝廉太郎作曲のこの歌も、

墨田川の川岸で咲き誇る桜を描いています。

日本人に広く深く愛される桜をモチーフにする歌は

古今枚挙にいとまがありませんが、

明治時代に作曲されたこの歌と

江戸時代よりの古謡「さくらさくら」ほど、

愛される歌もないと思います。

短調の旋律に、「さくらさくら」と繰り返す歌詞、

古謡が満開から散りゆく儚さを詠うなら、

「花」は、めっぽう明るく春爛漫、

歌詞には一度しか「桜」と出ないのに、

今や満開咲き誇る桜を謳います。

桃色に染まった長堤と川面、

眺める人々、たゆたう船、

何とも華やかでのどかな景色です。

底抜けに明るい風景描写は、一枚の絵。

印象派の画匠、モネの作品を彷彿させます。

この歌で、春を描かれ、都民に愛される隅田川、

どんなにか誇らしいでしょう。

しかし、この歌とともに経た108つの春、

そんなに素敵な思い出ばかりではありません。

隅田川は、歌が発表され、

半世紀も経たぬ間に、二度も、

川面に人の亡骸を流す

「死の運河」となる不名誉を蒙ります

一度目は、

作曲後20年あまりして起きた、関東大震災。

そしてまた20年あまり、桜の蕾も膨らみ、

まさにこの歌の季節も間近、64年前の今夜、

東京大空襲です。

少しずつ、蕾を膨らませる桜を見て、

指折り数えていた人も、いたと思います。

墨田川も、川面を染める花びらを

心待ちにしていたことでしょう。

しかしこの年、両岸に降り注いだのは、

桜ではなく、焼夷弾。

水面を埋めたのは、桃色の花びらではなく、

炎から逃れんと橋から飛び降りた人の亡骸でした。

多くの大人は大震災を生き延び、

つい1週間前、桃の節句を祝った子どもは

親に抱かれ、安心して眠っていた矢先でした。

隅田川のはじまり、

岩淵水門には、よく散歩に行きます。

土手の上の桜は、蕾も膨らみ、

遠くから見ても、薄く桃色がかって見えます。

河川敷で、野球少年が試合をしていました。

今年の桜も、おそらく、

美しく川面を染めるでしょう。

人々は、それを楽しむでしょう。

この歌のように、明るい春がくるでしょう。

この平和に感謝するばかりです。Cimg2083

岩淵水門。

ここから墨田川が始まります。

大震災も、戦災も耐え、

東京を水害から守ってくれました。

東京の夜が業火に見舞われて65年になりました。

この記事は、ちょうど1年前に書いたものです。

よければ、この記事の後書きも、

一緒にお読みいただけるとうれしいです。

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