保育

「女」が流行になっていないか?

保育所保育指針では、

「固定的な男女役割分業意識を植え付けないよう配慮」

と書かれていて、私たちはそれに基づいて保育をしています。

ジェンダー教育の初歩の初歩でしょうか。

必要以上に性差を意識するのではなく、

個々人を大切にしようよ、と理解して良いでしょう。

「みんな違ってみんないい」の精神ですね。

でも、子どもは鋭い!今の世の中を見て、

これに逆行する情報をちゃんとキャッチしてきます。

と言うのも、テレビや雑誌、広告などに踊る「女」の多さ。

「女子会」だったり、「女には女の…」だったり。

そんなのも、たまには楽しいかもしれませんが、

ちょっと行きすぎじゃないでしょうか。

「女は女どうし」も楽しいけど、そのノリで

「男は男で」「20代だけで」「都民だけで」

そんなが横行したら違和感を覚えませんか?

対象を絞る、と言うことは

誰かを除外しているってこと、気づいていますか?

私は、人間の括りは「個人」と「みんな」があれば

基本、それでいいと思います

(もちろん、入浴や着替えや出産は別ね)

「女」を必要以上に意識すること、

これって、ジェンダーに反しないでしょうかね?

女性の社会的地位にも、プラスにはならないと思います。

「たまには女子会もいいけど、いつもはみんなで楽しくやろうよ」

「今日は一人で、自分と向き合ってみようよ」

これが、成熟した大人だと思うのですが…。

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これ、被災地ではありません。

私の実家のすぐ近く、都営住宅の建て替え工事です。

この住宅の中に、ぞうさんすべり台の公園があって

私は子もんすてら。よりも幼い頃(多分3才くらい)から

ここであそんでいました。

ぞうさんを家に見立てておままごとしたり…。

自分が親になってからも

何度か、もんすてら。と来た事もありますしね。

それも、壊されてしまうようで、何だか寂しいです。

いや、それだけなんですけどね…。

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この秋から奪われたこと

♪きききのこ きききのこ

 のこのこのこのこあるいたりしない…

♪かきねのかきねのまがりかど

 たきびだたきびだおちばたき

秋って、愛らしくも美味しそうな歌がいっぱい。

ですが…

先日、私の働くぱいなぷる保育園に、

市から通達が来ました。

①公園で落ち葉遊びやドングリ拾いをしてはいけない

②しかも遊ばせる前に放射線濃度を測定せよ

③給食でシイタケを提供してはいけない

というもの。

理由はもちろん、福島第一原発事故のあおりです。

②については、

「素人の保育士が計測した数値が信用できるのか」

「各園がそれぞれ同じ公園に測りに行くのは不合理では?」

「保育園には通知が来たが、一般の父母には

もちろん通知は行かない。保育園児だけ安全で良いのか」

と、批判したいことはありますが、まぁ置いときましょう。

私がここで書きたいのは①と③

過剰反応でしょうか、それとも

「君子危うきに近寄らず」でしょうか。

私たち素人には、何とも分かりません。

ひとまず、行政の指示に従うしかないでしょう。

が、せっかく外に出ても、

ふんわり積もった落ち葉やドングリで遊べない…、

「旬の味覚」は食育に不可欠なのにシイタケが出せない。

公園でドングリが落ちてたら拾いたくなるし、

落ち葉がフワッとしてたら蹴散らしたり

持って帰って工作に使いたくなる、それが子どもです。

保育所保育指針にも、「自然や身近な動植物に

親しむことなどを通して豊かな心情が育つようにすること」

と明記されているのですが…。

だからこの通達が間違っている、と言うのではありません。

こう言う配慮が必要になったのは何故?

と問いたいんです。

原発のおかげで、私たちは安く電気を使えました。

それは認めます。でも、その事故の損失はどうでしょう?

原発による損と得は、経済や財政、つまり

○○円と表現できる世界では、よく話されます。

でも、こうした子どもの経験(できなかったこと)

これって、数字には出ませんが、

「子どもたちが大人になって日本社会をつくる」

って考えると、このこと、ボディブローみたいに

後から後から日本のダメージになる気がします。

ぱいなぷる保育園の事務室にいる私の頭上からは

冒頭の歌、子ども達の元気な歌声が聞こえてきます。

でも、何だかそれが虚しく響くこの秋です。

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楽しいたのしい(?)運動会

もうすぐ10月、私のぱいなぷる保育園も

子もんすてら。のここなつ保育園も運動会準備で大忙し。

子どもの頃、運動会が大嫌いでした。

陸の上で身体を動かすことは大の苦手でした。

今から思えば、単に運動神経の問題ではなく、

集団での活動が苦手だったんだと思います

(それは、大人になった今も変わりません)

水泳大会やマラソン大会では、それなりに活躍しました。

勉強では、ほとんど誰にも負けませんでした。

でも、運動会では、「みんなの足を引っ張るヤツ」でした。

幼いうちは、鋭い言葉で責められ、

次第にそれは、言葉ではない「空気」に変わりました。

それらは、高校くらい、あまり勝敗を意識しない運動会でも、

独立燃焼的に、私を取り囲む自己嫌悪となって残りました。

子どもながらに、運動も勉強も、

それぞれみんな得意不得意がある、と理解する一方で、

勉強が不得意でも誰にも責められない、

運動会でのマイナスを勉強で取り返しても

誰も認めてなんかくれない、と言うアンシンメトリーに

不条理を感じていました。

「楽しい運動会なんて嘘っぱち」「楽しさを押しつけないで」

が正直な気持ちでした。

これは、「だから○○であるべきだ」と話ではありません。

恨みごと、愚痴です。えぇ、情けないです

しかし、今もこうして、情けない思いでポツネンとしている子、

絶対にいると思います。

運動会が悪いとは思いません。勝ち負けもあっていいでしょう。

そんな中で、誰もが輝く瞬間のある学校生活で

あってほしいものです(言うは易し。

先生方には、とっても難しい注文でしょうね^o^;)。

もんすてら。運動会が楽しみで仕方がない様子。

勝ち負けなどあまり意識しない保育園の運動会だからか、

(私は、幼稚園時代に運動会が嫌だったか、覚えていませんが)

私よりは遥かに運動神経がいいから苦にならないのか。

小学校に上がってからも、運動会を楽しんでほしいな。

この週末、神津島に旅行に行く予定でしたが、

台風16号→船が欠航→帰れなくなる→仕事に支障

のおそれがあったので、中止にしました。

その代わり、天気が良かったので

もんすてら。と横浜港シンボルタワーにあそびに行きました。

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景色はこんな感じ

さて、富士山はどこでしょう?(ヒント:16時頃の撮影です)

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右から来たのは、東京に向かって千葉沖を航行中のさるびあ丸、

本当は今夜、乗るはずだったんだけどね。

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運動会の話の客観的な私の考え

それが人生だ、悟りなさい、ってところでしょうか

「みんな違ってみんないい」と言うのは

みんながそれぞれに脚光を浴びると言う意味ではなく

(それが理想ですが)浴びる人も浴びない人もいていい、

と解する方が現実的だと思います。

みんなが長島さんにはなれないけど、

野村さんが長島さんに劣る訳じゃない、

そう伝えたいですね。

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今年、今日という日

私の職場、ぱいなぷる保育園の事務室には

「てんしゅどう」と呼ばれる棚があり、

毎日保育士や事務の者がそこを利用しています。

そこに入っているのは、所謂裏紙、

使い終わったり、印刷等で失敗をしたコピー用紙です。

言葉あそびが好きな園長が

「浦上天主堂」から類推で名づけました。

人によっては、不謹慎と見るかもしれないネーミング、

でもこのおかげで、私たちは一年中、

遠く離れた(ほとんどの人が行ったこともない)

長崎という地、今日の日を毎日のように意識しています。

使える紙を廃棄せずになるべく何度も使う、

エコの基本だと思います。

それだけではなく、

子どもたちの前で大人がものを大切にする、

これは中身のある保育には不可欠でしょう。

さりとて、何でもかんでも裏紙にはできません。

「てんしゅどう」に入れる時、使う時、

裏に書かれた情報が、見られても大丈夫か、

緊張感を持って確認せねばなりません。

この時、否応なく「事務」に向き合うのです。

何とはなく見える裏紙の管理ですが、このように、

平和、エコ、保育の中身、情報管理と

いろんなエッセンスが詰まっているところでもあります。

そしてそれは、ささやかながら、全てが寄り集まって

子どもたち・人間の未来につながっています。

さて、今年は放射能への関心が例年にない高まり、

その中でこの日を迎えました。

明日の光があるのなら、

それは電力でも、業火でもない光であってほしい。

89日、長崎原爆忌。

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短冊への思い

今日は七夕ですね。

短冊に願い事、書きましたか?

私は、子もんすてら。のここなつ保育園と

職場のぱいなぷる保育園と、

両方の園で書きました。

内容は、

「世界の海がいつまでも豊かで美しくありますように」

別に、自分の趣味のフィールドのためじゃありません

(それもあるけど)

私たち人間が幸せに生きていくためには、

自然が豊かであることが不可欠だから。そして、

海が豊かでないと他の自然も豊かにはなれない、

他の自然が豊かでないと海も豊かにはなれない。

その思いを込めてこんな願いを書きました。

でも、今の一番の願いは違うんです。

実は昨日、ショッキングな場面に遭いました。

夕方、もんすてら。を迎えにここなつ保育園に入った時、

目の前の階段の中断、高さ2mくらいの危ない場所

(もちろん立入禁止)で遊んでいる子がいて、

次の瞬間、転落してきました。

大きい子なら取れたであろう受け身もせず、

人形が落ちるように、床に落ちてきました。

既にママがお迎えが来ていた子でもあり、

その場に保育士はおらず、私が対応しました。

もちろん、駆けつけた保育士と連携して、救急車を呼び、

その子はママと病院に行きました。

今朝、もんすてら。を送った時点では、

その後の経過の情報はまだ、保育園に入っていませんでした。

誰が悪い、なんて言うつもりはありません。

園舎の構造、目を離したママや保育士も責任あるでしょう。

私だって、感謝はされているけど、

もう一歩早く察知して駆けつければ、

床で受け止められたかもしれません。

ただ、今書きたいのはそんな事ではありません。

「あの子が無事でいますように」

本当の短冊には書けないから、

せめてここで、そう書かせて下さい。祈らせて下さい。

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悲痛なこと~認可外保育園で

昨年の秋、私の勤めるぱいなぷる保育園と

交流のある法人が運営する認可外保育園で

午睡中に乳児が死亡する事故がありました。

死因は、睡眠時無呼吸症候群。

保育士の目が行き届いていれば、防ぎ得ました。

折に触れ、この法人の役職員と私たちは、

「子どもにとって、より良い保育とは」と

学び合ってきました。

親しい園だから言う訳ではありませんが、

良心的な法人・園だと私は感じています。

そして先週末、さいたま市の認可外保育園で

似たような事故が発生しました。

死因等、詳しくはまだ調査中のようですが。

私はこの法人・園を知っている訳ではありませんが、

インターネットで拝見する限り、

しっかりした保育理念と楽しそうな保育の光景。

このような事故があったとはいえ、

決して悪質な法人ではないような気がします。

二つの事故に通じているのは

保育士の把握ができていれば、恐らく防げたこと、

それと、認可外保育園での事故と言うこと。

「ほいくえん」って一言で言っても、

認可保育園と認可外保育園では、

設置基準や人員配置基準が違います

(保護者負担の保育料も違います)

認可保育園や幼稚園に入るまでの

「腰かけ利用」も多く、園児の在籍は流動的で

保育士と園児の関係性も築きにくい。

似てはいるけど、全く違う施設と思っていいでしょう

認可外でも熱意や誠意のある園はたくさんあります。

確たる理念あるが故に、あえて認可外であり続ける、

そんな園もあるそうです。

ですから、認可外=悪いとは言いませんが、

トータルでの内容が劣るのは否めません。

調査によると、全国の認可外の利用児数は

認可利用児の1割程度だそうですが、

こう言った死亡事故件数は、認可外の方が多い

(つまり、単純な発生率は10倍以上です)、

この事実は、その1つの証明になるでしょう。

事故を起こした園や保育士だけが悪いのではない、

それだけ危険で過酷な保育環境が、そこにあるのです。

今、進められている「子ども子育て新システム」、

ここで描かれている「こども園」は

幼稚園や認可保育園よりも基準が緩く、

営利企業が参入しやすい、

また、自由契約で成り立つなど、

その全体イメージは、幼稚園・認可保育園よりも

認可外保育園に近いものと言っていいと思います。

同じ轍を繰り返さないか、懸念が消えません。

最後になりましたが、亡くなった乳児さんに、

心からのご冥福をお祈りいたします。

同じ業に就く者として、

過ちを繰り返さない決意を添えて。

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幼保一元化へのリアクション

幼保一元化が進められようとしています。

私は、幼稚園と保育園を分ける必要はない、

と基本的には考えていますが、

今、進められている改正には反対と言う、

ちょっと説明が難しい立場にいます。

私の勤めるぱいなぷる保育園も、園長はじめ、

職員の多くが反対、交流している多くの保育園も

子もんすてら。の通うここなつ保育園も

同じような立場です。

公立・社会福祉法人立の保育園関係者は、

(一概に言えるものではありませんが)

少なくとも賛成する人は多くないようです。

しかし、世間ではどうも印象が違うようで

「幼稚園側は反対、保育園側はおおむね賛成」

などと受け取られているよう…。

「保育園と一緒になったら、幼稚園の教育レベルが落ちる」

などと言う人も多いようです。これに対し、

私の周囲(反対する保育関係者)の中には、憤っている人も多く

「乳幼児期間を通じて、

また生活とあそびを混然として保育する保育園の方が

人を育てるのには適している」などの意見を見聞きします。

私はどちらにも賛成したくありません。

「幼稚園の教育レベル」って一体何ですか?

幼稚園にせよ保育園にせよ、

その保育(指導)内容は園によって様々です。

仮に保育園と一元化しただけで保てなくなるほどの

すべての幼稚園に共通し、かつ幼稚園だけにある

内容やレベルが存在するとは思えません。

ましてや、ここで言うレベルが、

単にその時の達成度だけを言うのであれば、

それは(今後、長い人生を歩む根を育む)

幼児教育の本旨から外れてしまうでしょう。

「保育園の方が適している」と言うのも、

また変な見方だと思います。確かに

幼稚園より年数も時間も長く、守備範囲は広いけど

園で過ごす時間だけが全てではありません。

そこを見落としてはいないでしょうか。

それに、

一言で言えるほど「保育園」って一枚岩ではありません。

公立や社会福祉法人立ならば

幼稚園に負けないほどの設備がありますが、

営利法人立や認可外となると

園庭もほとんどなく、イモ洗い状態も珍しくありません。

それも含めて「保育園の方が…」って言えるのか。

そして、営利法人でも参入できる「保育園」には、

残念ながら「子どもよりも儲け」を優先させる

業者がいることも、否定できません

(今回の改正に「賛成」なのは、

基準緩和で増園が容易になる事を期待する

こうした業者ではないかと思います)

幼稚園出身者にも保育園出身者にも

出世した人もいれば人生を楽しんでいる人もいる、

悲しいことに自殺してしまう人もいる、

単純に、どちらがいいとか言えるものではありません。

本気で子どものことを考えるなら、

ここは両者とも、踏ん張りどころ。

仲間割れをしている場合ではありませんよ

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保育士=心のきれいな職種?

昨日、行った研修で、講師の先生がおっしゃった話。

「日本には3万の職種がありますが、その中で、一番

「心のきれいな職種」が幼稚園・保育園の先生なんです」

半ば冗談、半ば真面目な話として、ですが

実はこれ、結構重要なキーが含まれている気がします。

何を「きれいな心」とするかはともかく、

子どもの心は大人よりもきれい、

これは誰もが同意するでしょう。

この、子どもたちに接する人たちの心、

汚れていたら嫌ですよね。

嫌と言うのは、単なる好き嫌いではありません。

私は、育児や保育は、単なる技術ではなく、

「心を込めること」が大切だと考えます。

どんなに優れた技術や器具を用いても、

保育者の心がこもるかこもらないかは

絶対に子どもに伝わりますから。

つまり、「心」は幼稚園教諭・保育士にとって

一番大切な資質(商売道具)なんです。

では、この「きれいな心」は

どうして培われてきたのでしょうか。

かわいくて心のきれいな子どもに囲まれているから?

確かに、それは最大の理由でしょう。でも、

それだけなら、恐らく子どもよりももっと純粋な、動物、

これを相手にする人は聖人君子になっちゃいます。

だから、囲まれている事だけが理由ではないんです

(動物相手の人も、心がきれいな人は多いでしょうし、

やはり必要な資質かもしれませんが)

誤解を恐れずに言えば、幼稚園教諭・保育士の仕事は、

世間一般から見ると、「仕事っぽくない」。

それがもう一つの理由ではないでしょうか。

幼稚園教諭・保育士は、幸か不幸か、

あまりお金やサービス、ビジネスライクな事を

考える必要性に迫られてきませんでした。

目の前の子どもと保護者にだけ向き合っていれば、

ほとんど仕事ができてしまう、そんな環境です。

だから、世界が狭いとか、常識がないとか、

そんな事も言われてしまいがちですけどね。

これは必ずしも良い事ではないけれども、

結果的に、心を汚されずに済んできた、

その職種に最も大切な資質を保ててきたのは確かなんです。

今、保育制度は、自由契約に変えられようとしています。

保護者に選ばれるサービスを提供できる、

そんな業者が勝ち残る時代が始まるかもしれません。

その理由の一つが、上に挙げた、

ちょっと世間から見たらずれてる労働環境と、

それを可能にしてしまっている保育制度が、

民間からかけ離れている、これを是正しようと言う考え。

ちょっと公務員に向けられる目と近いですね。

その論理には一理あると思います。

でも、ここで言う世間、つまり経済社会のジョーシキが

必ずしも正しいと言う訳ではないでしょう。

そして、保育をビジネスとした時に、幼稚園教諭・保育士が

「きれいな心」を保てるか、疑問が消えません。

未来を担う子どもの環境、それは

経済社会のジョーシキよりも軽いものなのでしょうか。

大人の社会に子どもの環境を合わせるのがいいか、

子どものために大人が変わるのがいいか、

私たち大人の度量が問われている気がします。

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本当のお勉強って?

King of Rockエルヴィス・プレスリーは子どもの頃、

学校での授業態度も成績も、散々なものでした。

が、音楽の成績だけはよかったそうです。

音楽は優秀な事も、他の成績が悪かった事も、

彼の「らしさ」を表している気がしますね。

私がここで疑問に感じたのは、

「日本の学校だったら?」

或いは、音楽の成績すら悪かったかもしれません。

ロックの王としての彼はあまりにも偉大だけど、

劣等生に秘められた才能を見抜いた学校教育も、

称賛に値するものだと思います。

勉強って、成績って、何のためのものでしょう?

自然・社会・文化・文字や数字、様々な学問、

私は「生きる力・生き抜く力」を身につける目的に対して

必要な手段だと思います。

ところがこの目的と手段について主客逆転をさせてしまう、

私たち大人が陥りやすい過ちではないでしょうか。

エルヴィスで言えば、

彼は音楽が好きだった、音楽の才能もあった、

それが、成績に繋がりました。

もちろん「生きる力(所得や生き甲斐)」にもなりました。

間違えてはいけないのは、

「音楽の成績のために彼が音楽を愛して、

また才能を持っていた訳ではない」と言うこと。

私たちは、勉強のために生きている訳でも、

勉強のために生きる力を身につける訳でもないのです。

「鉄は熱いうちに打て」

人生のかけだしの幼児期は、まさにこの

「生きる力」を身につけるかけがえのない時期です。

子どもは、自分でもこれらの能力に関心を持ち、

あそびや生活からも充分なほど、吸収をしていきます

(もちろん、環境設定は必要だと思います)

その結果、子どもは個々に様々な能力や興味を持ち、

それが「生きる力」「人生を楽しむ術」として結実します。

その力が就学後の勉強に反映される事もあれば、

残念ながら反映されない事もあります。

しかし、それはそれまでが無駄だったのではなく、

その子が得たものを、勉強が評価できなかっただけの事。

勉強や成績が、全ての力を表せる訳ではありませんので。

しかしながら、私たち大人はどうしても、

数値化できない「生きる力」そのものよりも

数値化できる学校の成績に目を奪われがち。

だから、幼児期に「生きる力」を養うより

学校の勉強を先取りしたくなってしまいます。

そのツケが、確実に日本社会を蝕んでいると思うのですが

本当の勉強って何だろう、

私たち大人が、ちゃんと理解して

「生きる力」を育んでいきたいものです。

さて、今の日本の幼稚園・保育園、保護者と行政、

それをしっかり貫けるかどうか。

幼児期は、学童期の予習期間ではないのです。

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幼稚園と保育園の「誤解」

私は、小学校の頃、成績はクラスでトップでした。

中学1年で始めた英語も、毎回100点でした。

そして、私と同じく好成績の男の子がいました。

私も彼も、決してガリ勉タイプではありません。

私は、公立幼稚園の出身です。

在園中、いろいろな保育を受けましたが、

勉強の類は一切しませんでした。

彼も、他県の公立幼稚園の出身でした。

恐らく、受けた保育は似たようなものでしょう。

学区内には、英語や算数を教える

「お勉強重視」の幼稚園・保育園もありました。

その子たちは、小学校入学時に

いくつかの英語を知っていましたが、

実際の勉強で負けたと感じた事はありません。

中学に入ってからの英語の成績でも同じです。

別に自慢がしたい訳ではありません。

ただ、この事実から「何か」が見えませんか?

誤解を恐れずに言ってしまえば、私は

早期教育はあまりにも無力ではないか、と感じるのです。

「好きこそものの上手なれ」と言う諺があります。

発達心理学では、「レディネス」と言いますが、

子どもの吸収力は興味を持った時に最大の力を発揮します。

だから、レディネス前に覚えた知識は、

レディネスを迎えた子に、あっという間に追いつかれます。

「お勉強」重視の幼稚園・保育園の子が、

私達にすぐ追い越された事実、何も不思議ではありません。

子どもには、確かに素晴らしい吸収力があります。

でも、それは「生きるためのいろんなこと」を

身につけるための吸収力なのです。

そして、生活やあそびの中に、そのエッセンスはあります。

「お勉強」そのものが悪いとは思いませんが、

その比重を高めてしまうこと、

大人の目がそこばかりに行ってしまうと、

その「生きるためのエッセンス」を削いでしまいます。

子どもには、生活とあそびこそが、最大の教材なのです。

「幼稚園は保育園よりもお勉強をさせる」

というのも、誤解だと思います。

幼稚園教育要領も、保育所保育指針も、

内容は同じものに統一されています。

確かに「お勉強」をさせるのは幼稚園の方が多いけど、

それは各園任意のオプションに過ぎません。

「お勉強」する保育園もありますし、

私の出身のようにしない幼稚園もあります。

上記のような二分化は、各園の実態を見誤らせます。

では、何故多くの幼稚園は

「お勉強」のオプションをつけるのでしょう?

ここに、今の保育制度改革のキーがある気がします。

と、それについては次回書くことにします。

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