哲学

自分の考えを整理

日々、いろんなことを考えて生活しています。

それは、仕事、育児、家事、人間関係、このブログ、

私のいろんなところの根本なのですが、

そもそも自分の基本的な考えって何だろう、

って自問自答したりします。

生活のいろんな局面に、って言うけど、

別に憲法みたいな条文がある訳じゃないし、

その時その時、自分の都合のいい方向にやってるだけ、

って可能性も否定できません。

で、整理してみました。

以前にも書きましたが、

私の最大のテーマは「つながり」

人は自然と繋がらずに生きていけません、

でも、一人じゃ自然の脅威に負けてしまうので、

人と人との繋がり、絆も同じくらい大切です。

親が祖先が命を繋いでくれたから自分がいるし、

子に子孫に命を繋がなかったら人類滅亡です。

命だけでなく、先人や隣人から受け継いだ

知や文化なども私たちの「生」に彩りを添えてくれます。

でも、「つながり」は全てではありません。

前世紀前半、「お国」と言う繋がりの元に、

日本人は辛酸を嘗めました。

「つながり」のある中で、「私は私」と言うのも

同じくらい、抜き差しならないテーマなんです。

実際、毎日一緒に何十年いても、

他人の思考を覗き見ることは、できないんです。

理性は、「つながり」を絶たれているんです。

この、相容れない両テーマ!どうします?

一方を重んじて一方に気づかない人はいます。

私が好きな西洋の哲学者たちの多くは、

理性を重んじて「つながり」にあまり触れません。

日本人は事あるごとに、「つながり」を暴発させて

個々人の違いを無視してしまいます。

「お国のため」「日本は一つ」「○○ジャパン」なんてね。

でも、どちらも大切な両テーマ、

一方のために一方を捨てるのは賢いとは思えません。

そこで、私はこう考えることにしました。

・「私」が存在する前から世界は存在している(当然だ)

・その世界はいろいろと「つながっ」ている

・「私」は、へその緒みたいにこの世界と

「つながっ」て生きている(じゃないと生きられない)

・でも、「私」の理性は独立している。私は私

・「私」は幸せに生きたいから、この「独立した理性」で、

世界との「つながり」を模索して、大切にする

ほっといたら、

「私は私」か「つながりだらけ」に流れちゃうけど、

「私は私」の「私」が「つながる」ことで生きる、幸せになる、

と言うのが、今のところの整理です。

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誤解される「哲学」

私は哲学が好き、好きなだけではなく、

日々の生活はその実践としています。

ブログに銘打っている「スローライフ」も

もちろんこれと無縁ではありません。

ところがこの「哲学」と言う言葉、

どうも誤解されている気がしてなりません。

私の経験で使われるこの表現は

「お金が全て、それが彼の哲学」

「私の哲学は『人にやさしくすること』」

こんな風に使われたりしませんか?

ここで言われる「哲学」は、

厳密には哲学じゃありません。

これは「思想」とか「世界観」「価値観」

と呼ばれるものです。

(※国語的には「哲学」と言って間違いではありません)

ごく乱暴な言い方をしてしまえば「哲学」とは、

「知について、よ~く考えてみること」

と言えると思います。

「生きるって何だろう」「幸せって何だろう」

「常に変わらない正義なんてあるのかな」

これらについて、疑問を持ったことのない人、

多分、いないと思います。

哲学って、知らず知らず誰でもやっているんです。

それを、「何となく」で終わらせずに、

どこまでも納得できるまでトコトン考える、

それだけなんです。

その結果、冒頭にあげたような、

思想や世界観に辿り着く事は、あります。

でもそれは、哲学そのものじゃ、ありません。

考えに考えた挙句、答えが出なくて

形のある思想にならなくても、哲学は哲学です。

似たような言葉として、「料理」があります。

普通、「料理」と言うと食べ物を作る行為を指します。

でも、その食べ物も「料理」って言いますね。

つくる行為とその結果の作品が同じ言葉で表現されます。

どちらも日本語としては正しいのでしょうが、

本来の意味は行為ですね。

「哲学」もまた、同じと言っていいでしょう。

思うに、学校などで私たちが哲学って学ぶ時、

昔のエライ人の思想などを覚えさせられませんでした?

あれは確かに哲学の作品ではあるけど、

それを覚えることは哲学でも何でもない。

なのに、そればかりがイメージに残っている、

それが「哲学」の誤解を招いている気がします。

ぶっちゃけた話、こんなエライ人の思想を

これっぽっちも知らなくても、哲学はできます

(知ってた方が、ヒントにはなりますが)

逆に言えば、知ってたからって

それだけじゃ哲学になんかなりはしません。

自分の頭で妥協なく考える、哲学ってそれだけ。

それだけですが、せっかくある脳ミソを

無駄なく楽しく使えるようになる気がします。

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「自由」と「つながり」

「自由」って好きですか?

あまり悪い印象を持つ方はいないと思います。

私も、最大限尊重されるべきもの、と考えています。

ですが、この「自由」について、

ちゃんと考えたこと、ありますか?

よく言うのが、「自由と責任は表裏一体」

責任なくして自由を訴えるのは、稚拙ですね。

私は最近、一つの事に気がつきました。

「自由って、人と人の分断だ」

自由を大切にすると、どうしても個人主義になります。

私は私、私の自由、

他人に干渉することは自由の妨げになります。

そう考えると、自由って、ちょっと寂しい…。

ところで、私の最大のテーマは、「つながり」

いきなり言うとジンマシンが出るかもしれませんが、

「親と子のきずな」

「やさしくされたらうれしい」

「強火で焼いたら焦げる」みたいなもの。

人間関係や因果関係もその中の一つですが、

その性質上、場面場面で「自由」と対立します。

思えば、人間はこの両テーマについて、

揺れ動きながら成長する気がします。

乳幼児の頃は、パパママとのつながりが全て。

思春期頃になると、自我も強くなって

自分は自分、と自由を謳歌します。

が、子を授かり、自分より大切な存在ができたり

老いて誰かに頼らなければならなくなったりすると

再び「つながり」の強さを意識せざるを得なくなります。

西洋は自由を重んじた個人主義、

東洋は「つながり」を重んじているのも、

西洋の精神的バックボーンであるジーザスは

東洋のそれにあたるブッダや老荘孔に比べ

布教も享年も若かったから、と

いくつかの本で読んだことがあります

(単純に言えることではないのでしょうが)。

私も自由を尊重したい個人主義者です。

その私が、「つながり」をテーマにするって、

自分の中に自己矛盾がある気がしますが、

何故ならそれって、「どっちも大事」だから。

どちらかだけでは、人は生きていけません。

一人として尊重されて、でも助け合って、

何とか生きているのが、人間じゃないでしょうか。

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「冷や奴」の食べ方

夏の美味と言えば、西瓜、かき氷、枝豆や冷や奴、

その冷や奴ですが、どうやって召し上がりますか?

怪訝な質問、でしょうか?

カツオ節、葱、そして醤油、お好みでおろし生姜や大蒜etc

甘党の私は、ジャムをかけてドルチェとして頂くのも好き。

特に、島豆腐のように水気の少ない濃厚なお豆腐に

ブルーベリージャムをかけると、なかなか素敵です。

って言うと、反応は2つに分かれます。

「あ、それ美味しそうかも!」「え…、気持ち悪~い」

まずもって、「うん、それ美味しいよね」と

自らの経験で同感した人には会ったことありません。

ここで思うのが、後者「気持ち悪い」のコメントについて。

さて、どうして気持ち悪いのでしょう?

食べ物の好みなど、人それぞれ。

食べてみて、本当にそう感じる人もいると思います。

ただ、食さずしてそう言うなら、ちょっと残念。

醤油をかけて食べるもの、って決めつけたら、

新たな美味しさを逃すことにもなりかねません。

別に豆腐の食べ方だから、逃したっていいけど、

これ、いろんな事に言えることで、

試さずして遠ざけちゃうって、よくあると思います。

でも、果たしてそれでいいのかなぁ。

いろいろ知った方が、人生楽しいと思うけど…。

ところで、私が一番好きな冷や奴は、

やっぱり、カツオ節と葱、そこに醤油。

普通の食べ方が一番美味しいとは思いますけどね。

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あの頃の人への思い

前回の記事も65年前の空襲の話、

よく言われるのが「かわいそうだったよね」

うーん、私ももちろん、その印象はあります、が

もうひとつ、絶対に拭えない思いがあります。

誤解を恐れずに言ってしまえば、

(あの頃の人って)バカじゃない?」ってこと。

ひどいですか?非難ゴウゴウ?

ただし、ここで言う「あの頃の人」は大人です。

子どもは例外として聞いて下さい。

「何で『戦争反対』って思わなかったの?」

って、思いませんか?

ここでよく返ってくる反論は、

①「そういう時代だから仕方なかった」

②「思っていても、言えなかった」

③「思ったところで、戦争は回避できなかった」

そうですね、私も、(読みかじり聞きかじりの

浅い知識の限りですが)①②③その通りと思います。

でも、でも、です…、

①確かに、国を挙げての戦争賛美、

入ってくる情報は、どんどん濃くなって

それに反対の意見は次第に影を薄くしていく中では

わからなくもありません。

でも、戦争の悲惨さ、あの頃の日本人も

(それなりに)知っていたはずです。

それをどうして、保てなかったのか…。

「欲しがりません勝つまでは」とか

「撃ちてしやまん」とか、

あの頃の勇ましくも殊勝なスローガン、

あれ、軍部からじゃなく国民がつくったんですよ。

②憲兵が怖い顔をしする中で、「戦争反対」は言えません。

私も、多分、口では「バンザイ」って言ったでしょう。

真っ向から体制に楯突くべきとは思いません。

でも、①にもメゲずに理性を保って、

お腹の中でそれを思うことはできたはず。

もちろん、言動には出ないから憲兵には何もできない。

そして、みんながそう思うと「匂い」で出るんですね。

③戦争は回避できなかったと思います(素人意見ですが)

でも、国民がここまで従順で好戦的でなかったら

政府や軍部は、「一億総玉砕」「本土決戦」まで

言えなかったと思うんです。

今から思うと不完全でも、一応は民主主義国家。

みんなから、「匂い」が出てたら

政府軍部も無視はできなかったはずなんです。

「ね、最近アメリカより国民のがコワいよ。

そろそろトルーマン君にゴメンしちゃおうよ」

って判断が出てきたんじゃないか、そしたら、

ここまで戦災はひどくなかったのではないか、と思います。

歴史にifはナンセンス、と言います。

確かに、意味はないし、そもそも素人の推測です。

でも、大切なのはそこから学ぶこと、

そして感じるのは、同調圧力に弱い現代の私たちが

あの頃と何も変わらないと言うこと。

流行や空気を読んだり、状況で判断することも大切ですが、

どんな時でも、「大切なものは何?」って

常に疑うことではないか、と思います。

追記

815日を過ぎたら、書店からもテレビからも

戦争ものの本や情報が激減しましたね。

何だか、半年違いのチョコレートと同じ扱いに感じます。

まぁ、北京五輪に沸いた2年前なんか、

15日も忘れられてた感じがしたから、

今年はまだ、マシな方かもしれません

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大切なのは「答え」ではなく「問い」

半年くらい前でしょうか、

NTTドコモのキャッチコピーで

「ひとりひとりに、こたえを」と言うのがありました。

言葉の響き、なかなか素敵じゃないですか、

私は、悪くないセンスだな、と思いました。

でもその一方で、疑問が頭をよぎりました。

「私たちの『答え』って、業者から出してもらうもの?」

フツーの人、こんなこと考えるほどヒマじゃありません。

ワタクシ、ヘンクツですから…。

思うに私たち、今まで「答え」を

誰かに依存してきた気がするんです。

それがあれば幸せになれるって保証なんてないけど、

そう宣伝されて「これからはそう言う時代だ」って

思い込まされて。

別に冒頭にドコモの例を挙げたからではありませんが、

今、問題とされている携帯電話のガラパゴス化なんて

まさにその結果としか思えません。

10数年前からでしょうか、新機能新機能の目白押しで、

私たちが本当にそれが必要か、と言うよりも

メーカーや電話会社の開発した新機能が

イコール「新しい」イコール「いいもの」って

錯覚してしまった、買ってしまった、

その結果、私たちの「携帯電話」、

随分と無駄に「高性能」になってしまった気がしませんか?

携帯電話の例で言えば、どうして私たちはあの時、

「本当にそんなの必要なの?くだらなくない?」って

自分に問うて、そっぽを向くことができたはず

(少なくとも携帯電話の機能は、パソコンと比べて、

仕事と言うよりも趣味的な比重が高いので、

「私には必要ありません」と言いやすいはずなんです)

そうしたら、こんな現象は起きなかったでしょうね。

もっと古く、もっと重い例を出せば、70年前

あの戦争に向けて、国民の多くが賛同しました。

冷静に考えれば、それが良いことか得することか、

当時の情報量でも分かり得たことだと思います。

それでも、人々は政府や軍部の「答え」に乗りました。

世論として疑問が幅を利かせていれば(いくら憲兵でも、

大多数の国民を取り締まるのは無理ですから)

犠牲はもう少し軽かったのではないか、と思います。

私は哲学が好きですが、哲学を初めて最初に知るのも、

「大切なのは『問う』ことだ」ということ。

過去のどんな偉大な哲学者の思想よりも

自分の「どうなんだろう?」の方がよっぽど大切だ、

それが哲学なんです。

日本人、そろそろ自分の頭で「どうなんだろ?」

始めてもいいんじゃないかな、なんて思います。

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人は概念化できないものを恐れる

今は性同一性障がいや同性愛等が認知されつつありますが、

それでも、「らしくない性別」所謂オカマオナベや

それに近い人、行為を「気持ち悪い」と言う人はいます。

ひと昔前は、もっと顕著でした。

でも、何が気持ち悪かったのでしょうか?

私の知る限り、それは

「人は概念化できないものを恐れる」からだと思います。

男は男、女は女、私たちは他人を見る時、

相手がどんな人であれ、必ずその「性別」を見ます。

性別に縛られずに、「相手そのもの」を見るのは

何と難しいことでしょう。そして、所謂オカマオナベは

この両方に属さないから、「見る」ことが難しい、

その拒否反応として、「気持ち悪い」と感じてしまうのです。

ひと昔前に比べて「気持ち悪い」と言わなくなったのは

性同一性障がいや同性愛を括る、

「第三の性」と言う概念ができたからに過ぎません。

性だけではなく、同じことがいろいろ言えます。

動物か無機物か分からない物があったら、触れますか?

虫か植物か分からない物があったら?

万事、私たちは「概念」でものを認識して、

「安全である」と認識したものにだけ、心を許します。

概念化できないものは、ひとまず

「危険である」と認識した概念と一緒に

警戒の対象に入れてしまうのです。

これは、私たちの自己防衛の本能でしょうね。

ただ、概念はあくまでも概念、そのものではありません。

例えば、世間に認知される前から、

性同一性障がいや同性愛そのものはありました。

ただ、概念として括れなかっただけなのです。

それを、概念として括れないから、と除外すること、

果たしてそれは、正しかったでしょうか。

きっと、多くの人を苦しめたことでしょうね。

私たち人間が、最も愛用する道具、

それは、剣でもペンでも箸でもなく、

それを持つ右手でも大地を踏む足でもなく、

脳内を駆け巡る「概念」だと思います。

お陰で、私たちは容易に考えたり、知ったりできます。

ただ、概念は「ものそのもの」とは違います。

これだけに頼っていると、

世界が閉じてしまう、物事の本質が見えなくなる、

そんな気がします。

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人は手段か目的か

何年か前、女性を「産む機械」と発言し

非難轟々を受けた大臣がいましたね。

あれには私も憤りました。

でも、あの発言の何が怒りの種なのか、

私を含め、ちゃんと考えたのでしょうか。

そもそも、問題視されていたのは少子化問題。

子どもを産む機能を備えているのは、女性だけだから、

女性にこれを期待するのは、間違っていません。

ましてや政治って仕事は、全体を考えるものだから、

「産めない女性」「産まない事を選んだ女性」がいても、

この視点はおかしくないと思います

(いくら産まない女性が増えても、

男性には産めないんだから)

「機械」って言葉だって、男性は何十年も前から

「歯車」って言われてきたし、今も男性に

「良き歯車(つまり高収入)」を求める女性は多いですよね。

「女性を家庭に縛りつける発想」と言う人もいますが、

私たちは生物としての原理にそもそも縛られている、

と言う事を忘れてはいけないと思います。

だからと言って、この発言を弁護する気にもなれない、

その理由、私の場合は「本末転倒」だからです。

政治なんて結局は、私たちのためのもの。

だから、政治家の提案は、私たちのためにどうするか、

であるべきなのが、その負担を私たちに押しつけている、

その責任転嫁にあります。

私たちは、お国のために存在する訳ではありません、

一人ひとりが、独立した意義を持っていると思います。

政治が私たちの手段であり、私たちは政治の目的なのです。

と、考えた時に、自分に対して一つの疑問が浮かびました。

では、私たちは完全に独立した意義があるのだろうか。

私たちの人生の目的は、何なのでしょうか。

何でも自分で決める、それもまた、違和感があります。

例えば、たばこやお酒の中毒の人、彼らが言う

「俺の人生の長さは俺が決める」は、素直に頷けますか?

もっと身近な例で言えば、子どもです。

彼らを最大限尊重することは、

躾をしないのとイコールではありません。

私たちは、自分の「生」を完全に支配してはいけない、

或いは、したくてもできない、と思います。

さて、正しいのはどちらでしょう?

思うに、「どちらも大切」「バランスが大切」

と言うことではないでしょうか。

「私は私」で良いと思います。

ただ、そこには「周りがあるから私がある」こと、

自分もその「周り」の一人として、

ちょっとはそのお役に立てるように頑張ること

(ぶっちゃけた表現で、「おたがいさま」って事ですね)

そんな、謙虚で緩やかな個人主義者でいたいものです。

え?少子化問題に対してはどうなのかって?

バランスが大切ですからね、産む人も産まない人もいていい。

どちらを採っても、周りに支えてもらっているってこと、

自分も周りに、ちょっとはお役に立とうとすること、

それを忘れたくないし、

どちらを採っても生き易い世の中であってほしいですね。

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かわいい哲学者たち

哲学が好き、それが私の底流にあって、

実は私の生活は全て、それの実践(のつもり)です。

それは、職である保育園の経理にしても、

このブログのテーマであるスローライフにしても。

まぁそのつながりは、また今度書くとして…。

でも、哲学者って、どんなイメージですか?

多分、頭が禿げててヒゲもじゃで、って言う

ソクラテスみたいなイメージか、

プラス牛乳瓶の底メガネをかけた変人、

どっちにしても、およそ凡人とはかけ離れた

風変わりなおじいさんのイメージがありませんか?

少なくとも、私にはそんなイメージがあります。

ではこの、「哲学」って何でしょう?

エラい人の定義づけは知りませんが、

私は、「確かな知」の模索だと思います。

絶対に変わらない知、真理とも言っていいと思います。

私たちは、いろんなことを知っています。

でも、全てを知っているとは言えないし、

もちろん、真理を知っているとも言えません。

では、どうしたらいいか?と考えた時、

「知っていること」はそれ以上知ることができないけど

「知らないこと」を「知る」ことで自分はもっと賢くなれる、

ってことに気付いた人が、

「知っていること」ではなく「自分の知らないこと」

に向き合う試み、それが哲学だと思います。

例えば、人間と動物は同じ権利を持つのか?

殺人は常に悪なのか?

人間の心と身体は、一緒なのか別の存在なのか?

答えは、誰にもわかりません。

でも、

1つ目の問題は、動植物の生存権で、

2つ目の問題は安楽死・尊厳死で、

3つ目の問題は脳死問題で問われるように、

現代人の胸元にこれらの哲学的課題は突き付けられています

(3つとも、命に関わる問題ですが、

生物学や医学だけでは、絶対に答えは出せないのです)。

自分の「知らないこと」に向き合う哲学は、

決して「難しい言葉のあそび」ではないのです。

さて、哲学って↑こんなもの、って思った時、

私たちの周りにいる、哲学的な人は誰でしょう?

それは、間違くなく「子どもたち」です。

気難しいおじいさんではなく、

私たちの前でかわいい笑顔を見せてくれる、子どもたち。

彼らは、自分が、あまり知らないと言うことを知っています。

だから、もっともっと知ろうとするし、

それを楽しんでもいます。

「何で?」とか「これは何?」と疑問を連発します。

哲学って、別におじいさんの学問じゃないんです

(いや、おじいさんがやったっていいんだけど)

本当は、とっても謙虚で身近で楽しいもの、

そんな風に、思っていただけると嬉しいですね。

さて、ワタクシはどんなに哲学が好きでも、

もはや誰も「かわいい哲学者」とは言ってくれません

その代わり、家事育児、子どもにはない生活での実践がある、

せめて「ヌカ味噌くさい哲学者」と呼ばれたら光栄ですね。

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私が尊敬する人物

歴史上の人物で、一番好きな人は誰ですか?

私は、好き、と言うのとはちょっと違うけど、

ガウタマ:シッダルタ、ブッダを尊敬しています。

そして今日、4月8日はブッダの誕生日なんです。

ブッダというと、仏教の開祖ですよね。

でも、私はこのブログでは、特定の宗教や政党を

良いとか悪いとか、書くつもりはありません。

ただ、ひとりの人間、ブッダを尊敬しているんです。

(私の解釈も交えますが)

ブッダの世界観は、全てを肯定するもの。

この世に価値のない物事は存在しない、

そしてそれらが、自然の摂理でつながっている。

私たちも、その繋がりの中で生かせて頂いている。

その世界に対して、私たちがなすべきは、

「生きてれば厭な事とかいっぱいあるけど、それもみんな、

意味があって存在してるんだから、受け入れましょうよ。

その時に感じる苦痛は、私たちの内にある煩悩のため。

煩悩が、厭な外的原因(繰り返しますが、価値あるもの)

レシーバー(受信機)になっちゃってるんだから、

自分に向き合おうよ、その煩悩を何とかしようよ」

って言っていいと思います。

どう思います?

私は、今の世の中って、歪みだらけだと思うんですが、

その答えを、暗に言ってくれている気がします。

厭なことやニーズがあれば、周りを変えるのではなく、

自分が動く、自分に向き合う、自分を変える。

実践に例えるなら、

お腹がすいたら、ご飯を作ればいい。

どこかに行きたければ、歩けばいい。

危険な動物や虫がいたら、刺激しないよう気をつければいい。

欲しい物があっても、本当に必要か自分に問えばいい。

人に優しくしてほしかったら、自分が優しくすればいい。

それを、外食や冷凍食品で済ませるから

食文化が壊れたり、現代病になったり、

不必要に車に乗るから、空気が汚れる、

動物や虫を殺めるから、生態系のバランスは崩れる、

流行になった物をすぐ買うから、ゴミが大量に出る。

自分の主張ばかりするから、人と人とがギスギスする。

自分のニーズをかなえるのに

「楽したい」「手に入れたい」「見栄を張りたい」

という煩悩に従い、自分は動かず周りを動かした

自分と向き合うのではなく、周りを変えてきた、

その歪みが、ここにあります。

「もったいない」って言葉も仏教用語

エコとの関わりの中で存在感を増してきつつありますが、

私たち人間もその心も、自然の存在だし、

みんな繋がっている、その中で生かせて頂いていること、

忘れたくないし、忘れてほしくない。

エコのみならず、仕事や家事、子育て、いろんな局面で

彼の教えは、あまりにも尊いと考えます。

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